[p.0865][p.0866][p.0867]
翁草

富士山焼之事 宝永四丁亥年十一月廿日頃より、江府(ごうふ)中天気曇、寒気甚敷、朦朧たるに、同廿三日午刻時分、いづく共なく震動し、雷鳴頻にて、西より南へ墨お塗たる如き黒雲たなびき、雲間より夕陽移りて、物すさまじき気色成るが、程なく黒雲一面に成り闇夜の如く、昼八時より、鼠色成る灰お降す、江府の諸人魂お消して惑ふ処に、老人の申しけるは、此事八九年以前加様の事有り、是は定て信州浅間の焼る灰ならむと雲、仍て諸人少心お取直しけるに、段々晩景に至、夜に入るに随て弥強く降しきり、後には黒き砂大夕立の如く降来て、終夜震動し、戸障子抔も響き裂、恐しさたとへん方なし、総じて昼八つ過よりは、空暗き事夜の如く、物の相色(あいろ)も見へ分(わか)ねば、悉家々に灯おとぼし、往来も絶々に、乃通行の人は、此砂に触れて目くるめき、怪我抔おせしも有とかや、諸人に何の所以お不知ば、是なん世の滅するにやと、女な童は泣さけぶ処に、翌日富士山焼候由、注進有てこそ、扠は其砂お吹出して如此ならんと、始て人心地ぞ付たりける、砂降積る事凡七八寸、所に寄一尺余も積しとぞ、事畢て、砂お掃除すといへども、板屋抔は七八年過候以後迄も、風立候折には砂お屋根より吹落し、難儀いたしける由、亦翌月より春に至、感冒咳嗽一般にはやり、家々一人も洩ず是に悩さる、其節狂歌に、是やこの行も帰も風ひきて知るもしらぬも大方は咳、前代未聞の事共也、右之刻駿州富士郡より注進之趣、 昨廿二日、昼八時より、今廿三日迄の間、地震間もなく、三十度程ゆり、民家火敷潰れ申候、扠廿三日昼四時より、富士山火敷鳴出(なりいで)、富士郡一ち面響渡、男女絶入仕る者多くとも、死人は無御座候、然処に山上より煙火く巻き出し、山大地共に鳴渡、富士郡中一面に烟渦巻候故いか様の訳共不相知、人々十(と)方お失ひ罷在候、昼の内は煙計相見候処、夜に入候へば一遍に火炎に相成候、其以後如何様に成候哉不奉存、先右焼出し候節、不取敢為御注意罷越候故、委細之義は跡より追々可申上候由、 右注進の後、弥火気熾に成、土砂石礫お吹飛し、遠国廿里四方へ砂石お降せ申候、伊豆、相模、駿河は所々寄て弐丈余も降積、堂社民屋も埋れ、勿論田畑の荒れ火しく、日お経て稍々焼鎮ぬ、其土砂お吹出せし所穴と成、其穴の口に大なる山お生ず、世俗呼で宝永山と号、本に海道の方より眺(みれ)ば、右流(ながれ)の半ん腹くに、彼の塊(かたまり)山出来て瘤の如く、左計三ん国無双の名山んに、此時少き瑕の出来しこそ恨なれ、