[p.0867]
信濃地名考

浅間岳 天武紀曰、白鳳十四年三月、信濃国灰降、草木枯雲々、今按、これ恐くは此山の異おあげたるべし、絶頂の大坑つねに煙立のぼり、硫黄の気あり、〈坑広大略三百間許〉坑中に硫黄みつる時、地火突発し大石ほとばしり、砂石お降して麓おやく其音数百里に聞ゆ、故に此山ひとり兀として四時すさまじ、貫之ぬしの詠じ給ふ千磐破あさまのだけ、煙のみ立つヾきて、いく千載震動、雲お焦しつ、山のすがたも変るばかりぞあらん、〈◯中略〉浅間が岳は国のみなかになり出て深からず、駅路其肩おめぐれば、路行人も高おおぼへず、〈或は、あさまは、火の梵語也といふは、うがてるにや、〉されど遠く眺ば、富士に続く何がしのたけなる、明の申叔方海東諸国記に、此山四時白雪おつむといへるは、不尽の高根にまがへるとかや、今夏月の雪まれなれど、立春の後百余け日、霜冴て雪のあしたの如し、又中秋より露寒く、或は霜早く来て、毛作お刺(さす)、故に耕の日せまれり、伝聞、むかしは寒気強く、鍋釜凍(いて)破だりと、今はかヽる事なし、されば秦の代に寒強く、漢に至て暖なりと、苛政は虎よりはげし、今難有順化にあふて、年の寒燠もそれにしたがへるなるべし、