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翁草
百三
信州浅間焼 嘗聞、天明三癸卯年七月、信州浅間岳焼の事、六月末頃より其兆有て、七月上旬に至り、火敷焼出、煙気東北へ吹覆ひて、信濃路よりは上州の方特に甚し、仍て信濃両国の荒川よりの洪水、今古未曾有と沙汰せり、去ながら此事古来無きにしも非ず、延宝天和の頃にや、年暦は聢と不考、浩る事有て、江都おも砂灰お吹飛しぬる由、古老の物がたりお承り伝えぬ、今も信濃路の駅には、其時落たりし焼石にて、石垣など積たる所有るよしなり、其後百余年は、此例お聞かず、その時の荒は、いか程のなりしやいざ不知、こだいの咄しは、きくも怖しき事なめり、関所なども崩失せ、何の里、かの村跡方もなくなり、人馬の損亡、万お以て算へがたく、木曾路是が為に久敷通行なし、たとへば浅間崩し平均して、地形お築たる程に、駅路高く成ぬれども、浅間は却て元よりも、高く成たる様に見ゆるとかや、焼出砂石にて、地形堆高くなれるお取捨んとしても、億万の人足お掛ても之お為さん事難し、其上取捨べき捨所もなし、せん方なく之お引平均(なら)して、立毛お植付試みるに、焦土焼砂なれば、作毛一切立たず、亡所数限も無となん、