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信濃国浅間岳の記
仁和三年七月三十日、大山頽崩、山河溢流、六郡之城廬払地漂流、牛馬男女流死成丘、〈扶桑略記〉 按に、千曲川の変なるべし、佐久、小県、埴科、更級、水内、高井、右六郡なり、 天明三癸卯年迄、凡八百九十八年、 応永三十四年丁未六月四日、富士と浅間山虹吹、四月より雨降つヾき、六月大洪水、川辺通大破、永正十五戊寅七月、浅間山雪降、 大永七丁亥年四月、大焼砂石降、慶長元丙申年四月四日より同八日迄、山鳴、大に焼上る、八日午刻、大石降落、人多く死す、数不知、正保二年乙酉四月二十六日、大焼、〈閏五月にあり〉 同四年二月十九日、大焼、 慶安元戊子年閏正月二十六日、辰刻大焼、古老の曰、此時大雪四尺余、雪解けて追分駅流失すと雲、同七月十一日、大焼、同二年己丑七月十日、大焼、 承応元壬辰年三月四日、大焼、 明暦二乙未十月二十五日、卯刻大焼、 万治二己亥六月五日、卯刻大に鳴焼、 寛文元辛丑三月十五日、大焼、同二十八日、大焼、〈閏八月にあり〉 宝永元甲甲正月朔日、大焼度々、同五年戊子十一月十八日の夜、江戸へ砂降、御撿使来る、〈閏正月にあり〉 享保三戊戌九月三日、前欠山より、火山南岳江飛び、大に鳴る、 同六年五月二十八日、大焼、人拾六人死、〈閏七月にあり〉 〈伝に曰、本庄のもの参詣のよし、〉 同八年癸卯正月朔日、大焼、同八月二十六日、大霜降、〈作毛皆無〉 同十八年癸丑六月二十日、夜四つ時大焼、黒野皆火になる、 宝暦四甲戌七月二日、大鳴焼、近国灰降、中にも佐久小県一日煙地お這ひ、朧にして時お知らず、作毛痛れ、秋過迄度々焼、 安永五丙申七月二十三日、卯刻大焼、同六年、焼事度々なり、 〈俗に曰、閏有年登山せずと雲伝ふ、先代大やけ、閏年度々有、〉 右古代の記録、委しくは他にあらんや、年おかくしるす、一浅間が岳は、絶頂凹にして底深く、たとへば擂鉢の如し、是お釜と唱ふ、ふちめぐり凡一里余有、中なる谷々より常に烟出る時は、硫黄解て器物より覆が如くにへ流れける、然る所、明和年中より以来、釜の中次第に砂石こぼれ積り、又底よりも土竜の起す如く、硫黄の気にて砂石涌上り、数年大焼止ていよ〳〵埋り、四五年已来わけて埋る事数十丈、深き大坑平地にひとし、去寅年望見るに、釜凸にして炭竈の如く、巌石積上げ大山となりぬ、近頃登山見る人毎に、間のあたり大やけあらむ、釜の中埋りたる事不審なりと口々に雲伝ふ、是前表とや雲はん、 一天明三癸卯年五月二十六日、已刻半雷の如く鳴渡り、黒焼雲の手の如く吹上げ、たヾちに山より東の方へ折て鼻田峠、蒲原村、六里が原、碓氷山つヾきへ横たへ、見渡し数十里、午の刻過て出口のけぶり半分へり、鳴も静まる、然れども是より日夜烟ふとく絶へず出でたり、