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半日閑話

一肥前国島原山海大変之一件 当二月、大坂紺屋丁日雇頭、大和屋市右衛門悴惣治郎と申もの、肥前唐津之城主、水野左近将監様御帰城に付、右の者御供致し、彼地へ罷下り、同四月五日島原之御城主、松平主殿頭様御参府に付、右御道中人足御用承、手代壱人人夫四拾人召れ、島原に逗留中、危き命お助る一件、 島原当月十八日より度々震動致、普賢山と申山々、方六十間程の窪き所より湯気立上り、後には火烟に成、〈此麓に温泉有〉夫より段々山々焼ひろがり、大石大に焼落、蜂け谷と雲所へ焼移り、二月九日頃、弥火強く、三月朔日二日一夜に幾度ともなく地震致し、此時島原の御城櫓二け所崩れ申候、 右総治郎、島原町方に旅宿お取、逗留致候所、四月朔日又々地震致候に付、旅宿お逃出んと騒ぎ候へば、例の地震に候間、鎮り居候様にと、宿の者申に任せ、見合居候所、間遠に成候無程亦々地震鳴動致候に付、最早こらへかね逃出候処、家居諸木とも折倒れ、大地所々弐三尺程づヽ割、往来に水かさ腰より上越し、山々の火もむらさき色に燃上り、真の闇にて、東西南北見へ不分、おそろしき事言語に難申、男女泣叫逃出候得共、津浪、山より吹出し、泥熱湯と一つに成、如何して可協や、然るに総治郎は漸逃延、御城内に不明門と申所迄、凡六尺余の水お凌、石垣に取付、御曲輪の松明灯挑の火にて御城へ逃出、命助り候、此者手代は、追手御門外大溝の中へ打込、面部手足ともに打ぬき、半死半生に而上り、所々療治に預り候処、先命無別条候、右大坂より召れる日雇の者四十人之内、三人助り、残り三拾七人は何れへ流行候哉、一向生死相知不申候、三人都合五人、四月十九日大坂へ帰著致し、見及候有様、左之通、四月朔日酉の刻迄、地震数度南海の方より水押上、山々よりは泥吹出し、山焼の火は紫色に相見へ申候、最初焼出、普賢山より城下には、弐里余り有之候、段々山々焼計り、四月朔日頃御城下へ続、二十七丁程之火に間相見へ申候、津波半時計の内にて潮引申候、御城下町凡三千軒程有之、壱軒も不残流失、漸町屋三十六程残り候へ共、人は一人も無之候、御座船壱艘、御召替壱艘、水主十人、 御要害人御船も無之、勿論商船など其数しれず、帆柱計海上所々に相見へ申候、御城下弐里隔り、浜手の方に萩原村と申在所有之候、此所に寺有、是は御城主様御菩提所に而、此中に大石の石塔など多く有之候、右大名御城之裏手、御家中屋敷江流れ来り、右之寺者跡形も無之候、肥後と肥前の間拾里、又は五六里隔り候、右之海中に新規に山壱つ出来申候、島原御城付五万石之内、過半流失之様相見へ申候、 御城下町家之跡、一向砂原と成、死人山のごとく、首或は手足抔ちぎれ〳〵に成、目も当られぬ形勢に候、 御城は先無別条、御家中より御城之裏手の分者、水押左程にも無之相見へ申候、外曲輪家中共に不残流失之体に相見へ申候、 御家老松平勘け由様御屋敷流失、仍而当時板倉八右衛門様と申御家老、御城代御預りに御座候、翌二日、同国佐賀より為見廻人数、騎馬百騎被差向、米五千俵、銀子百貫目被遣之候、御同国大村よりも、御人数并米銀共被遣、其外近領よりも、追々御寄物有之由承申候、大村よりは御寄物の外に、御医師数十人被遣、薬お木綿大の袋に入、後に負せ、又者馬に付来り候へ共、所々者七八分は流死人故、薬用候者は才にて御座候、御近国御近領に而、島原津浪之節出、命助り候者と申候へば、所々領主様より御養ひ被下、此度召帰候私共五人之者、夜中其泊々にて御養被下、誠に壱銭も貯無御座候処、御影にて大坂へ罷帰り申候、肥後肥前筑後津浪之地、凡四拾里四方と申候、 島原にて、武家町家民家流失之男女、牛馬之弊幾千万人と申、其大数中々急には分り申間敷奉存候、肥後国熊本御領、四月朔日津波上り、流家溺死火敷事、是者熊本問屋より、大坂七軒問屋へ書付差越候よし、凡五万人程の流失と申沙汰にて、右書付未見不申候、 寛政四年壬子四月