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筆のすさび
一普賢岳焼出 寛政四年亥歳、肥前雲仙岳の傍、普賢岳火もえて、太谷は僅のうちに山となる、終に城に及ばんことおおそれ、人民其難おさけんとするうち、四月一日泥水湧き出でて、過半漂没す、三郷はあともなくなり、其外、小き山いくつも出来たり、たま〳〵逃れ生きたる人も、其ときのことおおぼえず、あるひは湯の中おはしり遁れたるやうに、覚えたるもあり、また水中泥中、また火中お遁れたるやうに、覚えたるもありとなし、其禍浅間に十倍す、地の没したるは、肥後の方かへりて多かりしといふ、 又寛政の初、長崎の南の海中に、一里許のうち、潮一方へながれて、瀬おなしヽ処あり、彼方へ通ふ船人、数年あやしみ語りしが、後に雲泉岳の変あり、山裂け崩れ、潮出でヽ邑里あまた蕩壊して、隔岸の肥後海浜まで漂尽す、此夜逃れ走りて、死おまぬかれし人、熱湯の中お走るごとくなりしといひし、崩壊せしは前山とて、雲泉の前なる山なり、はじめ火の燃え出でし時は、近傍の人こヽかしこに逃れ避けしが、数月なにごともなき故、漸々立ち帰り、後は酒肴などもてのぼりて、遊覧せし人もありしとなり、