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東雅
二地輿
林はやし 義詳ならず、出雲国風土記に、意宇郡拝志郷の事お記して、昔国造られし大神大穴持命、越の八口お平げむがために、此地樹林茂盛の所に至りまして、吾御心之波夜志との給ひし故に林といふ、神亀三年の詔に依りて、拝志としるすと見えたり、これ上古の時の事おしるせしには、はやしと雲ひし語の聞えし始也、〈越は、則上古の時、古志国也、古事記によるに素盞烏神の時、八岐大蛇がすみし地、八口は、延喜式によるに、大原郡に八口神社あり、風土記に矢口神社と見えし是なり、後に古志之地お割て郡県お置れしに及びて、大原郡に隷せしなり、もとの古志の名は、わづかに神門郡の郷名に遺れり、此国拝志郷の外、諸国諸郡の名に、はやしといふもの多かり、或は拝志とも、拝慈とも、拝師ともしるして、林字用ひしは、甲斐備中等国にたヾ三つありて、また其国にはやしといふ地ある処お、林神社、波夜志神社、幣志神社など見えし、こヽかしこに多し、意賀美神社としるせしもすくなからず、かれこれお併見るに、古の時にははやしと雲ひしものは、もりなどいふものヽ如く、神社ある所の叢木の地おさし雲ひしと見えたり、琉球国にして、おかみはやしといふは、即神林なり、外国の事にはあれど、彼国の人の語には、我国の古語と覚しきは今もあるなり、以鳥記官、郯子の徴とせし事あれば、是又一つの徴なりともいふべし、〉また顕宗天皇紀に見えし室寿(むろほき)の詞に、築立柱(ついたてるはしら)者、此家長(きみ)御心之鎮(しつめ)也、取挙棟梁者(とりあぐるむなぎは)、此家長御心之林也といふ事見えけり、旧事、古事、日本紀等の書に、上世の事共しるせし所に見えし林の字、皆よむではらといふ、〈原の註に見えたり〉読てはやしといふ事は、この天皇紀お始とす、その後また皇極天皇紀に蘇我入鹿臣、また林臣といふと見えしは、林読てはやしといひけり、万葉集の歌に、綜麻形(うまかた)之林始しと見えしお、抄には杣山などの如くに、木おはやし初るなりと見えけり、いまも俗に凡物お生し立るお、はやすなどいふ是なり、されば林おはやしといひしも、其初神社お守りぬべきために、樹お生し立ぬるおいひしお、また此事によりて、凡竹樹の類、生し立ぬる所おも呼びて、はやしといふ事になりしとぞ見えたる