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武蔵名所考

武蔵野 按ずるに、古歌にむさし野のつヾきの郡、むさし野の堀兼の井、むさしのヽおかべの原などよめる類は、いづれもひろく此国の原野おさしたるにて、其所お定たるには非るなるべし、吾妻鏡、太平記等に、むさし野といへるお、文によりて考ふれば、多摩郡より入間郡に連たる地とおぼしく、一国にかヽりていひたる事とは聞えず、北国紀行に、むさし野の東のさかひ忍岡としるし、回国雑記には、むさし野の下に、野火留塚おしるしたるに拠れば、豊島新座まさしくむさし野の内と見ゆれば、丙辰紀行、地名考等の説は、これによりたる事と覚ゆ、また今入間郡のうちに武蔵野郷と称するもの、上下赤坂、上下松原、大井、藤窪、亀窪、竹間沢、鶴け岡、大塚、同新田、片柳新田十二村あり、又むさし野十七け新田といひて、久米新田、安松新田、所沢新田、岩岡新田、下田新田、堀金新田、中新田、堀の内新田、加佐志新田、三け島新田、諸岡新田、猿新田、長窪新田等の村々いできて、〈四村の名いまだ詳ならず〉猶も下留村のほとりに、槲林大野原など、むかしの武蔵野の僅に存せるさへ、めぐり三里にあまるといひ、又今も多摩郡に野方領あり、又中野といへる村三所、小野といふ村二所、其余日野、原野、入野、野津、野塩、野口、野上、野辺などの村名あるお見れば、むかしは多摩入間の二郡ことに多く原野なりしと見えたり、続古今集下野の歌に、逢ふ人にとへどかはらぬおなじ名のいくかになりぬむさしのヽ原、又新後拾遺集、源頼康の歌にも、草枕あまた旅寐おかぞへてもまだむさしのの末ぞ残れる、などたとひみづから其地にいたらぬ人の、遠想してよめるにもせよ、そのかみのありさま、おのづからおもひやるべし、今も土人むさし野八百里と、もろこしにいひ伝ふるなどの説お誇り説も、その広きかたちはおしはかるべし、よてむさしの十郡に跨るともいふべきにや、