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小金野御狩記
御狩場の原は享保のむかしは、中の御牧とて、馬飼給ふところなりしお、寛政の御時とかや、この御牧お二つにわかちて、土手作らせ給ひて、常に乗めで給ふ南部の馬おこヽにわかち放ち飼しめ給ひたり、故にこヽお御園の御牧(○○○○○)と唱ふるよしなりけり、此度も中の御牧の馬は三百程も有しお、みな六芳野といふ処へ七里ばかり追やらせ給ひ、また此御牧のは五十程も有しお、皆牧士のものへ分ちあづけしめ給ひしになりけり、御立場のあたりは御園の御牧なり、五助木戸と雲より東は中の御牧なり、此木門より南へ土手ありしお、此度三百五十間崩して、御園中野一つの牧とはせさせられしなり、土手は六十間二十間十間五間とたよりあしき処は、皆とりはらひたり、常は御園木門といふところばかりなるお、そこもひろげたり、六十間切崩したれば、こヽお六十間の御狩の入口とぞいふ、