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江戸名所図会
十三
堀兼井 河越の南二里余りお隔てヽ堀兼村にあり、浅間の宮の傍にある、故に是お浅間堀兼と号せり、〈此社前は古の鎌倉街道にして、上州信州への往還の行路なり、今の宮は慶安中、松平豆州侯建立なし給へり、別当お慈雲庵と号、河越高林院の持なり、〉浅間の祠の左に凹地有て、中に方六尺ばかりに石お以て井桁とし、半土中に埋れたるものあるお堀兼の井と称せり、傍に往古川越秋元侯の家士岩田某建る所の碑あり、高さ五尺余、其文左の如し、 此凹形之地、所謂堀兼井之蹟也、恐久而遂失其処、因石井欄置黝中削碑而建其傍、併以備後監、〈里語堀而難得水、故雲爾、兼通難未知、隻従俗耳、宝永戊子年三月朔、◯中略〉 土人伝へ雲、往古日本武尊東征の時、武蔵野水乏しく、諸軍渇に及びければ、尊、民おして此所彼所に井お堀らしむるに、終に水お得ざれば、竜神に命じて流お引しむるとなり、〈今の不年越川、或は入間川の事なりと〉もいへり、按に太平記に、元弘三年五月十五日、義貞、武蔵野の戦ひに打負て、堀兼おさして引退くとあるは此地の事おいへり、又元和十三年の春、光広卿の記行にも、廿三日は山の端しらぬむさし野につけ入、〈中略〉堀兼の井は右に見て通る、決定知近水心にうかぶべし、けふは仙波の御堂に雲雲、かくいへるも、此浅間堀兼の事なり、其余にも堀兼の井と称するものあり、此地より六町計南の方に、二十歩ばかりの間窪める地あり、是おも堀兼の井と呼べり、又北入間村にも堀兼の井と唱ふるありて、字お七曲りの井と号、渡り六七歩にあまれるもの農家の傍にあり土人相伝ふ、文永七年に堀穿所のものにして古は一村の人こと〴〵く此井の水お汲む事となり、されども後世井路崩れ損じたる故、今は所々に井おまうけて、此水お汲事なし、よつて井の摎りには雑樹繁茂して欝蒼たり、又其傍に文永、文保、寛正等の年号お刻せし古碑お存す、すべて堀兼の井と称するもの、乙女新田、及び高井戸等の地にもありといひて、堀兼の井一所ならず、再び按に、武蔵野の広寞なる古水に乏しき故に、所々に井お堀穿つといへども、容易に水お得る事かたかりければ、かくは号けけるならん、されば此井一所に限るべからずと雲ひて可ならん歟、〉