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類聚名物考
地理三十七
関の清水〈◯中略〉 関の清水の事は、今年京都にあそびて、三井寺のゆきかひに、逢坂の関山おいく度か越るにつきて、関の清水の地ゆかしくて、尋ねたる事有りしに、まづ土俗の雲ひ伝へし所二所あり、今うちまかせて人の覚えしは、大津宿〈此所お八町といふなり〉より京の方へよりて、道の北に〈京より下れば左の方に在り〉関清水大明神といふ社あり、石の鳥居立たり、その社の前に石お畳みて、清水の出る所有り、是お御香水と名付て、目お病人、此水にてあらふ事なり、その水洞の如く上お、かこひは一間四方ばかり、深さ三四尺も有るべし、甚だ清らにすみて、底に徹て見ゆ、是誰も知る所なり、さて又一所は此水より猶京の方にて、道の両傍に山のせまる所在り、〈今は片方は町家にて、北の方は山なり、〉是古への関山なる事疑ひなし、実に孔管道とも雲ふべくして、関おかれんには、此所にこそ有るべけれ、山の間わづかに十間に過す、京より下るに、右の方に山の麓にそひて石垣有り、その尽るほどばかりに又家並有り、〈此お井筒町といふ〉その北の山の下に〈京よりは左の方〉南無阿弥陀仏の名号えりたる石塔あり、高さ八尺ばかり、その前に石の井あり、二尺あまり四方にて、水もあさくたヽへけり、是お俗には弘法大師の加持水とて、めぐりに垣ゆひ廻し、常には蓋うちきせたれば、かりそめの往来には見えず、〈車道のむかひ山のはらに有り〉此水も眼やむ人の薬とす、花香など手向る人ありと見ゆ、或老人の語りしは、五十年ばかりの昔、此石塔のかたはらに、二抱ほどなる桜の大木有りしが、ある年の大風にたふれて、此塔のうへさまにかヽりし故、塔もこけたりしが、その塔の下に此清水ありて、古井のさまなり、是ぞ古への関の清水にして、此事知人まれなりと語りぬ、今はその井筒お前にして、塔おばむかひさまへ居えたり、今思ふに、初の大津の宿よりは、十町ばかりも東に有るべし、此所関の旧跡と見ゆれば、有る所はよろしきに似たり、されども賀茂長明の無名抄に、関の清水の事お出して、山中に有るよしいへり、その時だに、水ははやうあせはてヽ、跡だにしられぬと見えたり、まして今千年にちかき時に至りては、いかでそこともしらるべき、しかしながら古歌にとりては、あふ坂の関の清水にかげ見えて今やひくらん望月のこま、とよめるお思へば、関のかたはらに清水は流れて、往来に影のうつりけん事たがひなし、しからばいづれ長明法師の雲ひけん、山中なる事はいぶかしくこそ、たヾし今しばらくあたへて論はんには、その山中なりしは清水の源にて、流の末は関のわたりに出けるなるべし、又いまいへる所の清水は、いづれにもあれ、その流の末お認て、こヽこそ清水のあとよといひて、水上は尋ねぬにこそあらん、よりて此地形およく〳〵見はかるに、水はたとひ涌もいで、あせもすらめど、山のたヽすまひのかはれる事有るべからず、此地桑田の海となるべきかたにもあらず、さらば関屋はたえて久しきことなりとも、関山は今も土俗の本関ごえともいへば、此所にたがひなし、よて思へば、今車道とて、牛車のかよふ路有り、〈此所にては、車道は北の方に有り、〉その所はいとひきく、道より見おろさるヽ所々もあれば、これらや古への小流のあとなどにやあらん、今の世と成て、牛車のしげくかよふにつけて、道行人のさまたげとなるおいとひて、その流お切落し、或はせきふたげて車の通路とせしにやあらんもまたしるべからず、蝉丸の居りたりし所も、まさしく関のわたり成べきに、是も今は蝉丸大明神といふ神にいはひこめて、社たヽし給ふ、是も二所有り、しかし京の方なるが関山にもちかく、山のさまも旧めかしく見ゆ、さだかなる事は、その人の由跡だにしれぬ事なれば、まして居けん庵の在る所も、千年の今にはしるべからず、是も此頃三井寺に在りし時、人の語りしは、志賀郡辛崎の西なる山の裾に、大井村とて、いささかなる里有り、今は穢多といふ乞食の住所なり、その村長お大江の某といへり、是は大江千里の後胤なりといふとかやそれさも有らん、〈大江村お俗に誤て大井村と雲ふ〉たヾし延喜帝の皇子の蝉丸の御供とて、此所にくだり住付て有りしといふは、うけられぬことなるべし、此類ひ世に猶多き物語なれども、ことの次にしるしおきぬ、