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宇治拾遺物語

今はむかし、信濃国につくまの湯といふところに、よろづのひとのあみけるくすりゆあり、そのわたりなる人の夢にみるやう、あすのむまのときに、観音湯あみ給ふべしといふ、いかやうにてかおはしまさんずるととふに、いらふるやう、とし卅ばかりのおとこのひげくろきが、あやい笠きて、ふしぐろなるやなぐひ、皮まきたるゆみもちて、こんのあおきたるが、夏げのむかばきはきて、あしげの馬にのりてなんくべき、それお観音としりたてまつるべしといふと見て夢さめぬ、おどろきてよあけて、ひと〴〵につげまはしければ、人々きヽつぎて、その湯にあつまることかぎりなし、ゆおかへめぐりお掃除し、しめお引、花香お奉りて、いあつまりてまちたてまつる、やう〳〵午時すぎ、ひつじになるほどに、たヾこの夢に見えつるに露たがはず見ゆる男の、かほよりはじめ、きたる物、馬なにかにいたるまで、夢にみしにたがはず、よろづの人にはかに立てぬかおつく、このおとこ大におどろきて、心もえざりければ、よろづの人にとへども、ただおがみにおがみて、その事といふひとなし、〈◯下略〉