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湯島温泉記
湯島 城崎郡湯島なり、昔は島にて有といひ伝ふ、今此辺新田多し、南より北へ流るる川の端に船著場有、町は少西へ引退きてあり、町中に西より東へながるヽ小川有り、此川上は、竹野といふ所の嶺の麓より落ると也、湯壺も町の家々も、皆此川お狭みて両方にあり、此川末にては落あひて、津井山田井村の間より北海へ落る也、此川筋、昔ば海にて有しにや、観音浦、笹の浦、むすぶの浦、二見の浦などいふ所、皆此川上なり、〈◯中略〉 新湯 一の湯二の湯と分て二つ有、是下の町の入口にある湯なり、湯熱くして湯の勢つよし、隔日にして、今日は一の湯おとめ湯にして二の湯お入こみにし、又明日は二の湯おとめ湯にして一の湯お入こみとす、 切に幕は仕舞て、夜は一の湯二の湯男女おわけて入こみとす、援の湯は有馬のごとく湯壺の底より沸にあらず、一の湯のわきに湯口といひて、岩の下より沸出る也、それおとひお仕かけて、一の湯二の湯へとるなり、此湯口のゆお汲取て、所の者の朝夕つかふ湯とす、湯は甚あつくきれいなり、されど塩はゆき故に、飲食には用ひがたし、近年援の湯おもてはやす事、京都の医師後藤左一郎、此湯の諸病に効有事お考て説広めしゆへに、畿内より初めて諸国に聞伝へて、入湯の者多し、後藤氏が説にも此新湯お第一に称して、此湯は気血おめぐらし、運動して鬱滞お解の功あるゆへに、諸病に効ありと雲々、又日によりて湯のあつき時は、外より川の水お汲て、といにて仕かけてぬるくし、又ぬるき時は、湯口の鏨おぬきて、湯おしかけて熱くする也、又是より上の湯には、湯壺の底より沸もあり、 中の湯 二つあり、俗に瘡湯と雲、これは一切の瘡瘍の類お早く愈すゆへなり、わきて楊梅瘡お煩ふ人のみお、此湯へ入るといふの名にはあらず、中比京都の医師賀来道節、津田幸庵は、此湯に心およせて、此湯瘡類ばかりにあらず、諸病によろしと称美せられしゆへに、其比湯治に来る者は、多く此湯に入しと也、されど近世後藤氏の論には、瘡疹の類も、早く愈すは宜しからず、唯新湯のよく気血お調和し、瘡瘍のおのづからいゆるにしく事なしといへるゆへに、新湯に入者多し、上湯 一つなり、中の湯の上に並びてあり、これは所の者の洗足の湯に用るなり、総じて此所の者は、平常の浴にも温泉お汲でつかふゆへに、所に風呂居風呂の類希にもなし、此辺は皆下の町にて、上の町は、間に野道の民家お隔て、又一筋の町あり、下の町、温泉の左右皆客舎あり、大津屋、井筒屋、油屋、板屋など雲能家十軒ばかり、その外は小家也、総じて湯島の町の能家といふは、皆下の町にあり、