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愛媛面影
三温泉郡
温泉 道後山の麓に在り、往古は熟田津石湯といひけるお、いつの頃よりか道後の温泉と雲、此道後と雲事は、平家物語、源平盛衰記等に、道前道後の境なる高縄山とありて、山西おすべて道後といひけんお、松山といふ城下の名におほはれて、今は温泉の辺の名とのみなりぬ、此温泉は神代より始りて、代々の帝王行幸せさせ玉ひし事度々なり、功験他の温泉にまされば、浴する人千里お遠しとせずして此湯につどへり、昔は幾所にも涌出て、其湯々に湯桁といふ物お架して浴たりと見えて、六花集に、 伊予の湯の湯桁の数は左やつみぎはこヽのつ中は十六 新葉集に 神さぶるいよのゆげたのそれならでわが老らくの数もしられず 源氏物語空蝉の巻に、いで〳〵およびおかヾめて、十はたみそよそなどかぞふるさま、伊予の湯桁もたど〳〵しかるまじう見るなどあるおおもへば、かならず一所にはあらざりけむ、〈◯中略〉 されど今は一棟にて上中下の三等に分てり、又養生湯とて、三所の湯の流おつる所お一処に湛たり、少将定行朝臣の建立し玉ひし也とぞ、〈◯中略〉俚諺集雲、慶長十九年十月廿五日大地震、湯没して出ず、其後湯神社前に神楽お奏し、祈て湯湧出る事旧の如し、貞享二年十二月十日大地震、泥湯湧出、後に清湯と成、宝永四年十月四日讃州大地震、温泉没して不出、仍て湯神社に於て神楽お奏し、社造補あり、玉垣おし渡し、朱鳥居建立、道後町中より千本の神木お御山の麓に植、玉石に仮殿お営み、奉幣祈念怠事なく、翌年正月廿九日、凡百四十五日お経て涌出、四月朔日より旧の如く浴する事お得たり、是より霊泉いよ〳〵新に妙験古に倍したり、又安政元年十一月五日、申中刻過大地震、温泉没して不出、例に依て湯神社に神楽お奏して祈念す、翌年正月末より涌始て、二月末よりぬる湯となり、三月末に至え再旧の如し、