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熱海温泉図彙
温泉主治 熱海の温泉は、関東第一の名湯なれど、半ば遊山の地とのみ聞て、其功能お詳にせざる人多ければ、其功験おこヽに記す、 中風にて手足しびれて、歩行心にまかせざるに妙也、眼病、かすみ目、たヾれ目の類は、七日入湯して目おあらへば治する事妙也、 腰の痛 脚気 筋攣 打身 折傷 諸の虫 寸白 痔 脱肛 淋病 〈せうかちによし〉 喘息 婦人腰の冷 懐妊せざる人 気虚 血損 歯の痛〈はのゆるぐには、此湯おふくめば妙也、〉 腫物 金瘡、此湯に入れば、初は其毒おはつし、そのヽち全く愈る事妙也、右いづれも医療お尽してしるしなきに妙也、けだし水腫、腹満、癩病は、此湯お禁べし、湯に入る間、房事おつヽしまざれば、きヽみちおそかるべし、因に雲、文政十三年七月上旬、百樹此地にいたり、渡部氏の客舎にやどりて、温泉に浴したるおりから、主の婦人の物語に、今年春の半、主翁は江戸にいたりて家にあらず、時に甲州の人とて、〈西郡の某氏〉一人の老人、娘とて中年の女二人、下女一人、従者二人お具して宿りけるが、翁のいふやう、我は疝気の病ひあり、いもとの娘に癪の病ひあり、二つの病症此湯に妙なりと聞て、はるばるこヽに来りし也、しかるに此姉に一つの奇病あり、もし此湯にて治する事もやあらんかと保養かた〴〵につれきたれり、その奇病といへるは、六年以前より昼夜眠る事あたはず、神心労れて見らるヽごとく枯痩、食すヽまずして闇所おこのみ、人に対する事お忌み、時としては心蒙々として人事お弁ぜずして、発狂せるが如、かヽる病にも、此湯の利申にやと問ふ、婦人答ていふ、今聞へ給ける疝と癪とは、此温泉に浴し給ひて、全快ありし人々許多あれど、六年の間眠り玉はざる病お治したる事は、聞もおよび候はず、わらはヽ女の身にて、医療の事は露ばかりも暁し候はねど、眠り玉はざるは、気血のとヽのひ給はざるならん、此いでゆは気血お補ひ、精心おさはやかにするお第一の功とすれば、こヽろみに浴し給へ、その功能に応じ給ふ事もあるべし、さはりとなる事は、いさヽかもあるまじといふに、翁いかにもとて、是よりかの女に〈歳ごろ三十余〉入湯させし事、十余日なりしに、ある日朝食お喰する時、碗おとり二た口三口にして、頻に眠り、持たる碗おはたとおとしたるが、おどろきもせで、ねぶければいねんといふに、翁かたはらにありて大によろこび、寐所へ入れて臥せけるに、其日も暮て夜もすがらうまく睡、次の朝も目おさまさず、かくて昼夜三日の間、息ある死人のごとくなれば、翁ははじめのよろこびにかはりて、覚束なくおもひ、主の婦人おまねぎ、しか〳〵のよしおかたり、なにはともあれ、三日のあいだ食せざれば、飢てに、病にあしからん、起すべきやなど婦人に問ふ、婦人のいふ、六年が間眠り玉はざりしとなれば、一日お一年として、六日臥給ふともくるしかるまじ、そのまヽに甘く眠らせ給へとて、物の音もはヾかりて眠せけるに、第四日の夕かた、みづから目おさまして起立、四日臥したる事はしらず、今は何時ぞといふ、此時主の婦人かたはらにありて、翁に目くばせして、七つ半も候はんといふに、女うちえみつヽ、さてもうれしや六年ぶりにてしばしがほどこヽちよくねぶりて、心はれ〴〵としたり、人々は夕けたべ給ひしや、わらはもとて喰おもとむ、翁ほた〳〵よろこび、いざとくといそがするに、婦人ふたヽび翁に目くばせし、六年ぶりにてめづらしくねぶり玉はヾ、めでたく粥おすヽめ給へとて、にはかにてうじたてヽすヽめけるに、常にまさりて心よくはしおとりつヽ、給仕する下女にものいふさまなど、つねにはあらぬ事にて、人のなみ〳〵なりければ、翁かたはらにありて、よろこぶ事かぎりなし、かくて次第に快く、寝食つねのごとくになり、人に面おあはする事お嫌ひたるも、わすれたるがごとく、したしみあさき相客の女にも、ものいひかはすやうになりて、三めぐりあまり浴して、奇病といひしもまつたく愈ければ、翁はさらなり、妹おはじめ、従者までもいさみよろこび、翁も妹も病おわすれて、めでたく故郷へ立かへりぬとものがたれり、此物語のついでに、江戸にて某の人年久しき腫物の、ふしぎにいへたるはなし、又は他の客舎にて、諸病の愈たるものがたるなど、雨のつれ〴〵にあまたきヽたれど、さのみはとてもらせり、