[p.1140]
倭訓栞
前編十三世
せ 瀬は、説文に水流砂上也とみゆ、〈◯中略〉古事記に、青人草之落苦瀬といへる辞見えたり、水浅くて舟かよひがたきに喩へて、神代よりかくはいへるにや、歌にこヽお瀬にせん、逢瀬、うき瀬、恋しき瀬、うれしき瀬などよみ、俗にやる瀬なし、瀬こし、瀬ほろばかしなどいふ是也といへり、湍お、日本紀に、せとも、たきともよめり、説文に疾瀬也と注す、新撰字鏡に㶖㴸おはやきせとよみ、歌に山のたきつ瀬などいへる是なり、灘おなだと訓ずれど、増韻に瀬也と見え、新撰字鏡に、わたせとも、かはらぐせともよみたり、七里灘お厳陵瀬ともいふ事、大明一統志に出たり、古へはせとよみしにや、新古今集に貫之は曲水の宴せしに、月入花灘暗といふおよめる、坂上是則、 花ながすせおもみるべき月かげのわれて入ぬるはまの遠かた、此時の壬生忠岑が歌は、新拾遺集に入て、それもまたせとよめり、題の句は白楽天が詩なり、