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神風行囊抄

宮川 一名豊宮川(○○○)、一名度会川、尾畑の町の出口にあり、船渡なり、 是所は豊受大神宮の禊川にて豊宮川と雲お、上略して宮川とも雲、是は山辺の町の西の入口なり、 上の瀬下の瀬とて、船渡両所なり、往昔は神領なりしに、何れの時よりか此渡り他領に属す、然るに山田の神官訴江戸、参宮人の往来の為に煩なからんやうにと願奉りて、延宝辰の夏、如先規為神領、風雨洪水にも無滞往来して、旅人無絶日、〈◯中略〉宮川お、度会川とも、度会の大河の辺とも古歌によめり、此川にて御饌料に年魚〈鮎也〉お取事は、天の忍穂の海人(あまひと)といへる漁人の年魚お供せしより事起れりと、鎮座本記に出たり、〈◯中略〉 古老伝 宮川お阿部川共雲と、 元長神祇百首に、五月雨お、忍海人の年魚取ぬるそのかみも阿部の川原に雨はふりけり 大河辺お阿部川原共雲となり、 此川は俄に洪水出来て、水難多し、故に上古は公家の為御沙汰、毎度堤お築き水お除られしとなり、治承年中には、相国清盛公、大神宮に参詣し給て、堤お築せられしと也、其所お今清盛堤と雲、 寛永年中に、秀忠公の厳命に依て、宮川の辺の堤お築く、然るに正保元年八月二十八日の夜の洪水に堤悉く崩失しに、時の奉行人石川大隅守源正次達台聴再築之、同三年に成就すと雲、此は家光公の御時也、