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多磨河考
多磨河は、安閑紀に多氷屯倉見えて、多氷は即多磨の通音なり、〈◯中略〉玉河と書は、建保の比より後、光る磨くなどいふ詞お詠合せし歌によれるにて、袖中抄にも其名に就て、児玉郷におこりたらんよし注せし也、寛永以後偽作したりけんとおぼゆる総国風土記に、多磨(たば)、或玉、また多摩とも見えたれど、文禄以前の正き書に、多摩と書るはたえてなし、仁安年中の経筒の銘に多波郡、日蓮注画賛に田波(たば)河、私案抄に多波河、神明鏡に丹波河などあるも、多麻とはいはざる証也、されば多磨河と書て、太婆我波と訓お正しとはいふ也、水源甲斐国都留郡船越村におこり、東隣の丹波山村お経て丹波川と号し、さや川村鴨沢村おすぐ、以上の四筒村、往古は武蔵国多摩郡の内なりしが、後甲斐国に隷たりけんとおもふは、霊異記、今昔物語にみえし多磨郡鴨里は、今の鴨沢なるべければ也、さて多磨郡小河内、境、白尾、棚沢、丹波村お経、多磨郡中お流れ、荏原郡羽田の海におつ、其間上道四十里許也、丹波村は大丹波小丹波と二に分れて、古の多氷屯倉は此処にや、又は丹波山村ならんもはかりがたし、郡名も丹波山、大丹波、小丹波の里の中よりおこり、其郡内お流るる川なれば、多磨河と称し、歌には調よからんために、通音もて多麻河とよみ、遂には珠玉の意にもとりなして詠出ることヽはなれる也、