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松屋棟梁集

隅田河埋木文台記 むさしの国と下総のくにとの中にある河おすみだ河といふ、古今和歌集、〈羈旅部〉伊勢、〈伊勢物語第九則〉今はむかし〈今昔物語旧本廿三の巻第卅五語〉などの物語に見ゆ、八雲御抄、〈五の巻河部河原部〉夫木抄、〈雑六河部〉松葉名所集、〈十五の巻〉歌林名所考〈五の巻〉袖珍歌枕、〈七の巻〉秋の寐覚〈川部〉などに下総と注せしは、葛飾郡に〈葛飾郡の事、万葉集三の巻、九の巻、十四の巻、奥儀抄中の下巻、袖中抄十六の巻、延喜民部式上、和名抄国郡部、拾芥抄国郡部、節用集活板本国郡部、新撰類聚往来国名部などに見ゆ、また万葉仙覚抄五の巻十五の巻には、太井河お境て、西お葛西郡東お葛東郡といふよしいへり、〉すみだの里ありて、〈吾妻鏡一の巻に、隅田宿見ゆ、また廿五の巻に、角田太郎といふがあるは、此所にすめりしにや、されど駿河、出羽、紀伊などにもおなじ名所きこえ、相模国愛甲郡にも角田村ありて、その外いづこにもさる地名あるべければ、さだかにこヽの住人ともいひがたし、〉そこにおこれる河の名なればなるべし、更級日記に、あすたがはとあるは、あもじ一字あやまれるにや、夫木抄に、〈雑八渡部〉すだの河原とも、すだの渡ともよめり、〈四神地名録葛飾郡部上隅田村の条に、土人すだ村と称す、名におふすみだ川は此村より北にて、足立郡と葛飾郡との境也、隅田村とはよほど隔りてあり、今は埋りて少しき流ながらも、何れの村人も古(ふる)隅田といへば、当国の名所古歌にある隅田川の実跡なるべし、江戸砂子には、荒川お隅田川と記せり、隅田村にそひて流るヽ川なれば、此辺に於てすみだ川と名づけしは無理ならずきこゆれども、里人の雲お以て見れば、古隅田実跡にきこゆべしといへり、げに今も里人は須田村とよぶ、古隅田川の説はいかヾあらん、〉義経記には〈三の巻頼朝謀反の条〉すんだとも書たり、〈義経記評判には、改てすみだと書たれど、寛文板、元禄板ともにすんだとあり、〉かヽればすみだとも、すんだとも、すだともいふ、或はかよはし、或ははぶけることばにて、みなおなじこヽろばへになんありける、〈◯中略〉建保名所百首歌枕名寄、〈廿一巻の武蔵部〉新撰歌枕名寄、〈三の巻武蔵部〉机右抄〈十三の巻〉歌枕玉叢抄抜書、〈東海道部〉角田川謡詞〈表百番嵯峨本並諸本〉などにもすみだ川お武蔵の名所とせれば、建保の頃より後、こほりも川もむさしのくにヽは隷たる也、源平盛衰記、〈廿三の巻〉平家物語〈長門本十一の巻〉に、隅田川はむさしと下総の境といへるは、古今集や伊勢物語によれることばのかざりなればとらず、勅撰名所和歌抄出、〈活板本上巻河部〉名所方角抄〈武蔵国分の条、此書宗祇の撰といふはうけられず、後人がつくり出て、宗祇の名に依託せしなるべし、増補方角抄といへるも三巻あり、〉梅若権現の縁起〈◯註略〉には、二国に渉れりとす、さてふたヽびもとの下総にかへされけんことは、北国紀行、あづまぢの裹(つと)、河越記などにいづ、〈本朝通記後編廿四の巻、永禄元年正月の条に、北条氏康与里見義弘太田三楽戦于武州国府台と書たるは、いぶかしきことなり、〉後に今のごとく武蔵の郡に定られしは、貞享元禄の間ならんこと、江戸総鹿子大全、〈五の下巻川部橋部に、元禄年中の事といへり、〉瀬田問答、〈林諸鳥が建し碑文お載て、貞享三年丙寅春閏三月割利根川西属武蔵国と見ゆ、〉亀戸の善応寺の鐘のことがき〈江戸志十の巻に載て、武州葛飾郡亀戸郷福寿山善応寺享保二十年三月とありといへり、〉中田氏が家にもたる水帳のうはぶみ、〈本所表町の名主中田氏が所蔵の水帳に、武蔵国葛飾郡北本所村撿地水帳元禄十年丁丑十二月とあり、〉などかうがへてしるべし、さればすみだ川ははじめは下総、中ごろは武蔵、その後また下総、今はむさしの名どころ也、木母寺の鐘のことがきに、武蔵のくにの豊島のこほりの隅田川とあるはいと〳〵いぶかし、〈延宝五年九月にえらびし鏡銘に、武州豊島郡隅田川梅柳山木母寺と見ゆ、こは葛飾郡とあるべきことなるに、葛西本所わたりが武蔵に隷しお、豊島郡に管たるなめりと心得ひがめしがゆえのわざなるべし、〉