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江戸紀聞

物茂卿雲、武蔵相模のさかひなるすみだ川といふ事は、女のかヽれたる物なれば、国の名書ちがへたるものなるべし、山岡明阿雲、異本には、武蔵と下総との間にこの条あり、さらば今の世のいひつたへにはよくかなへども、或は後人のこと更に入ちがへたることにや、多本みな武蔵相模のさかひとあり、もしはこの作者、また幼稚の童女の〈今按に十三歳の時也〉かきたる物なれば、聞たがへしにもあるべし、いづれか定めがたくなん、今按に、物氏の説のごとく、たヾ国の名書たがへたりといへるもうけがひがたし、前後の文お見るに、武蔵野お分てこの角田川に来れり、是より相模の国に至り、唐の原など見しことおかけり、諸越の原は相模国なり、国の名あやまりたらんには、下総の国とかくべきか、それよりもろこしが原にいたらんには、はるかにほど遠かるべし、いかさま国の名かきちがへたるにはあらで、案内せし人の多磨川のほとりか、またはあらぬ川せさして、是なん角田川といひしにまかせて、女の事なれば、かくかきしにあらずや、