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太平記
十九
奥州国司顕家卿上洛并新田徳寿丸上洛事 奥州の国司北畠源中納言顕家卿、〈◯中略〉白川関お立て下野国へ打越給ふ、鎌倉の管領足利左馬頭義詮、此事お聞給て、上杉民部大輔、細川阿波守、高大和守、其外武蔵相模の勢八万余騎お相副て、利根河(○○○)にて支らる、去程に両陣の勢東西の岸に打臨て、互に是お渡さんと、渡るべき瀬やあると見ければ、其時節余所の時雨に水増て、逆波高く脹り落て、浅瀬はさてもありや無やと、事問べき渡守さへなければ、両陣共に水の干落るほどお相待て、徒に一日一夜は過にけり、援に国司の兵に長井斎藤別当実永と雲者あり、大将の前にすヽみ出て申けるは、古より今に至まで、河お隔たる陣多けれ共、渡して勝ずと雲事なし、縦水増て日来より深く共、此川、宇治、勢多、藤戸、富士川に増る事はよもあらじ、敵に先づ渡されぬさきに、此方より渡て気お扶て戦お決候はんに、などか勝で候べきと申ければ、国司合戦の道は勇士に任るにしかず、兎も角も計ふべしとぞ宣ける、