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類聚名物考
地理三十二
江戸川(○○○) 北条五代記〈巻九〉に、今は諸国治り、天下太平、四海遠く浪のうへまでもおだやかにして、静なる御時代なり、然れども兵船多く江戸川につなぎおき給ふとしるせり、今案に此江戸川はいづこにや、させる跡さだかにはしれねども、おそらくは今の隅田川にや、また今当時江戸川といふは、新利根川(○○○○)のことにて、真間国府台の下お行く行徳川(○○○)の事なり、此川関宿以上、上野下野より、江戸への運漕の川故しかいへり、下は行徳にいで海に入、それより横に続きて小名木川(○○○○)通り、浅草川(○○○)へ続けり、是おも江戸川といふなれば、いづれともさだかには雲ひがたし、いづれこの二には過べからずされば宗祗の東土産、〈永正六年の紀行也〉或人安房の清澄お一見せよかしと誘ひしに、いづこかさしてと思ふ世なれば、立帰りて江戸の館の御許に一宿して、角田河の河舟にて、下総の国葛西の府の内お、半日ばかりよし蘆おしのぐ、折りしも霜枯は難波の浦にかよひて、隠れて住し里も見えたり、鴦、鴨、都鳥、堀江こぐこヽちして、今井といふ津よりおりて、浄土門の寺浄興寺にて、迎へつる人まつほどに雲々とあり、この今井津は、今の行徳の今井の渡なり、角田川の河舟といへる、全く今の小名木通りにちがふべからず、猶も坂佐井通り、今の竪川(○○)にても有るべけれども、上の文体、前にいへるにかなへり、思ふに此竪川は後に出来しものにや、