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西遊雑記

筑後川といふは、九州第一の大河(○○○○○○○)にて、水元は豊後、日向より流れて、川舟十五里の往来有、川下へ夕さし入て、海舟百石積計の廻舟は入る也、此川お筑後、肥前の堺として、むかしよりも双方の村々、堤、水道の論まヽある所也、近年は別しての事にて、肥前の方より川土手お築上し事数丁にて、夫にては瀬の下といふ所の町家凡千余軒、高水の時にせくべきやうなし、 瀬の下といふは、久留米よりわづか八丁、川に望て家造りし町場にして、土手おして防ぐべき地所なし、常水にても川端へ遠からずして、高水の節別て難義なる所、肥前のかたに土手お築かれては、いかんともなしがたきやうに見ゆる地理なり、 此故に争論甚敷なりて、築後久留米領の百姓、肥前の地に入れば大勢にて打たヽきし、肥前の百姓久留米領へ来れば右の如し、既に百姓合戦に及ばんとす、無拠聞訴となり、予が此所通行のせつ、御見分として御代官万年御氏御下向、肥前の国千栗明神の別当寺に御止宿あり、其後いかヾ成し事にや、双方の百姓勝手つくのみの物語とり〴〵にて、奇談も有し事なり、援に略しぬ、