[p.1191][p.1192]
佐藤元海九州記行
抑此筑後河は、原お豊後と日向の界なる深山より発し、西北に流れて当国に至り、久留米城の西北の隅に来て、屈折して西に流れ、榎津と雲ふ所より西海に注ぐ、是れ九州第一の大河なり、河舟の通行すること凡そ十五六里、河下の所は潮入にて、二百石積の船も通津す、此河は、筑後と肥前の国界にして、若し大雨の降続くこと有れば、洪水出て両岸に溢流し、筑後の方は高良山の下より、久留米の領内大半湖水の如くに成り、肥前の方は、直ちに西尾神崎の辺より、佐賀城下に至るまで、悉く洪水の災お蒙ること度々これ有りき、故に両方より堤防お築きて、水難お防ぐの策お為す、殊に近来佐賀領にて、久留米城の向ふ河岸に高くして、丈夫なる大堤お数十町の間築しに因て、肥前の方の河辺の百姓は、大水出ると雖ども其難お免るヽこと成て、筑後の方には火く水の溢れることヽ為り、久留米領なる瀬の下と雲ふ所は、別して甚しく水難お蒙り、痛く困究するに至れり、瀬の下は、久留米の城下より僅十町ばかり離れたる所にて河に臨みて家作せし町家凡そ千軒余りありて、頗る宜しき地なるに、今は如何とも難為の所と為れり、此に因て此両国の百姓、年々闘合争論等あり、合戦同様の事なり、此より以来久留米領の土地は、水腐の患毎年少からず、此に因て藍お作るに良なり、