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西遊記

求麻川 肥後国求麻川は、九州第一の急流(○○○○○○○)なり、源遠く那須椎葉山五け村辺より出て、四十里ばかりも流れたり、殊に大河にて、求麻郡の真中おつらぬき、求麻の人吉の城下お過て八代に至り、肥後の海に入る、予が帰路には、相良の御舟にて此急流お下りぬ、船はもとより軽し、人も才に予と僕と二人に、船人三人、都合五人乗なれば、一しほに飛が如く、八代まで十六里の川お、才二時に下り著たり、其頃は三月のすへなれば、春水殊に多きに、人吉御城下青井の宮の前より船に乗れば、送別の人々おびたヾしく打集り、名残の恨いふもさらなり、高橋、雨森、石田の三士は、猶船に乗り移りて、酒肴など携へ、纜お解ば、もとよりの急流、見送りの人々は霞の中に入りて、招く扇もはや見うしなひぬ、盃一つふたつめぐらす間に、渡りと雲所まで下りぬ、人々はつきぬ名残なり、帰りの陸路も遠ければ、此所より上り給へとすヽむるに、いづくまでといふ限りもなければ、人々も襟おうるほして上りぬ、予もしばし船お離れて、又酒一つ、ふたつくみて別る、是より下も水逆巻落て、殊にすみやかなり、船はいとちいさく細く作りて、首尾に梶お付たり、是は真逆様に大岩に流れかヽりたる時、あとばかりの梶にては船の廻る事遅きゆへに、先きにも梶お付たるとなり、常に先の梶お第一に動し居て、岩角お避、思ふ方に船おめぐらす、又中程に楫お持て一人立り是は舟お前後左右に動かす為なり、此三人の船頭しばらくも油断せず舟お操る、浪殊に逆巻所にいたりては、船の両方に高き板お立つ、是は浪の舟中に入らざるやうとなり、十六里の間に四五け所はいたつて難嶮の所ありて、浪の高き事山の如く、怒れる岩角浪の間におびたヾしく峙出づ、かヽる所にては、領主などの通行の時は、瀬越しとて其前後四五丁、或は八九丁ばかりも船お離れて山に登り、此嶮悪の瀬お越し終りて、又船に乗り給ふとなり、予はいと珍らしく覚へぬれば、興に乗じて、其瀬おも船に乗りながら下りぬるが、其目ざましき事筆の及ぶべきにあらず、渡りより下つ方は両山けはしく峙て、峯は頭の上に臨み、流れ殊にせまりて細く、怪巌峨々として屏風おたヽめるが如く、壁お付たるが如く、竜の騰るが如く、獅子の踞るが如く、或は雑樹影茂れる中に入るかとすれば、松杉森々たる岸に臨む、或は山吹の散かヽりたる、躑躅の咲そろひたる、山桜の己が梢とあらはれ出たる、千景万色眸おめぐらすにしたがひ、両山隻走るが如くにして、李太白が軽舟既過万重山と詠ぜし、かヽる境にもおもひ出らる、彼巫峡の急流は唐土第一にして、舟の下れる事疾鳥迅雲も及ばずといふも、いかで是には過ん、予も興に入りて一絶句お作る、〈別に記行あり〉程なく八代の井手といふ里に著ぬ、誠に舟中の心よき事、今も忘れがたし、日向より求麻に入りしも、兼て聞つる急流お、船して下るべき為なりけるが、日頃の望たりていと嬉し、求麻の地は、極深山の中には広大の平地なり、別に一世界のごとく、仙境ともいふべし、他国に出入る路、日向の嘉久藤口と、此求麻川筋と二道のみなり、此川の傍に山路有れども、絶嶮にて殊に細し、されば相良侯にも、東都御参勤の時も、此川お船にて下らるヽとなり、家中の面々も皆船なり、誠に数百里の海上おへて東武に出る事なれば、家中の人々も、其妻子親友など、此川ばたに出て見送りの時、殊にあはれなる事なり、其時に船の纜お解やいな、陸より船の中の人に水おかくる事なり、舟の人々笠おへだてヽ水お防ぐ、此まぎれに急流の事なれば数十町下り過て、涙おそヽぐひまなく、はや見送りの人影お見うしなふ事なり、予が発足の時も其如くなりき、誠につきぬわかれに、落くる涙せきかねて、取る手さへはなちかねたるに、水おそヽぎて船お飛す、陸地の別れに異にして、物いひかはすひまもなく速にてよけれど、又更に心ぼそくあはれなり、