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吉備烈公遺事
承応三年甲午の秋、備前洪水に而、橋は諫匡橋隻一つ残り、其余皆流れしほどに、百姓の危難中々雲計なし、公倉お発して賑済せさせ給ひ、尚及がたかりしかば、大に患ひ思召て、とかく是予が政事の不善なるによりて、天の戒させ給ふ成べし、罪なき百姓の此災にかヽる事、悲にあまりありとて、寝食おさらに安ぜ給はざりしかば、熊沢助右衛門御前に出て、此事お議しけるに、臣に一つの策の候、江戸に参りて天樹翁主になげき申なば、捨置せ給ふべきに非ずとて、頓て直に備前お立て、かくと申されしかば、翁より公方に申こはせ給ひ、金四万両かし賜りしかば、是より銭にかへて、封彊お四方に運びて分ちあたへらる、政事に従ふ人の中にも、民の二度三度に及て銭米おわくる有、如何して改むべきといひしお聞召、事遅くば民共難垝いと遍かるべし、いく度なり共、わかちあたへよとぞ仰ける、