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信濃奇勝録
四諏訪郡
須波の海 日本紀、元正天皇養老五年六月、信濃国お割て始て諏訪の国お置、聖武天皇神亀元年、配流の遠近お定め給ふに、諏訪国、伊予国お中流とす、其後天平三年、廃諏訪国并信濃国雲々、湖水の順道三里とはいへども、洪水の毎度に埋りて、七島の名のみ残りてみな陸地となれり、今は径一里、或は一里半、深さ七尋ばかり、西に至りては深さ勝りて幾ばくといふ事おしらず、魚鱗は、鯉、鮒、鯰、鰻、闘魚、鯇あり、近年小海老お産す、めぐりに浦々ありて民家多し、漁父常にすなどりおなして生計の便とす、南は駿河なる不二の高根お遥に望み、四方に衆山連綿して風色斜ならず、此水の落口お尾尻といふ、伊那郡お流れて遠州へ出る、天流川の水上なり、冬は湖一面に氷はりふさぎて、其上お人通行す、春は正月の末、又年の寒温によりて、二月の半までも氷のうへおゆきヽす、氷の厚さ一尺より二尺余、其上お何程の大木大石お引けども破る事なし、氷のうへすべる故に樏おはきて通る、其上に雪積れば、常の如く草履草鞋にて行、馬はすべる故渡らず、此湖氷はりて、漁人氷の下に網お引お氷引といふ、氷お一所長くうがちて、其所より網お入、また其先おうがち、竹の竿お持て次第に先のうがちたる方まであみお送りやりて、幾所もかくのごとくにうがちて、網お広くはりて魚おとる、此時漁人は腰に長き竿お挟む、若あやまりて落入るときも、竿にて死おまぬがるヽといへり、昔はかくする事お知らずして、冬春は漁人すなどりおせずといへり、 此湖お騒人鵝湖と称す、三体詩に、鵝湖山下稲、粱肥、注に鵝湖は在信州鉛山県西南十五里とあるおもて、信州の大湖なれば、なずらへていふなり、 或本朝年代記に雲、後深草院建長三年二月十四日、諏訪神前湖大島、又唐船出現、片時間消失雲々、是は西国北国にて蜃気楼おみると雲類なるべし、