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東遊記後編

諏訪湖 信州諏訪の湖は、周廻三里の小湖なり、然れども乱山重畳の中にありて、景色は無双の地なり、此湖辺より湖上に富士山の北面お見る、富士山峭直にして宝永山お見ず、富士の形は、此湖上より見るも又奇なりと雲、扠此湖に世俗にいふ七不思議といふ事あり、其中にも殊更奇妙の事とするは、此湖水冬に至れば、寒国の習ひとて、一面の氷となる、厚さ数尺に及び、金鉄の如くにして平地に異ならず、霜月より翌年の二月までは人馬皆氷の上お往来して、少しも恐るヽ事なく、下の諏訪上の諏訪、其間三里の所たるお、冬は氷の上お一文字に通行する故、才一里に成りて、甚便利なる事也、いかなる重き荷物お付たる馬車にても、むかしより氷破れて水底に落入りしためしなしとは、不思議なりと問ひしに、冬の初に神渡りといふ事あり、其神渡りありて後は、氷破るヽことなし、春に成り又神渡りあり、其後氷いまだ厚しといへども、恐れて一人も渡るものなし、其神渡りはいかなることぞといふに、冬のはじめ、一夜湖上大なる音して、物お引通る如し、夜明て見れば、氷の上お一文字に格別の大石大木などお引通りたる如く、氷左右にわれ分れて、一筋の道付たり、是は渡り済みたりと雲、此後は人馬往来して過ち無し、二月の末又此事あり、其後は渡りおやむる事なり、伝へいふ、諏訪神社は狐お眷属とし給ふなり、狐は氷お聞ものなれば、此神渡りは明神の使しめの狐の所為なりとぞ、又諏訪に温泉ありて、諸人入湯する所なり、湖水の中にも温泉あり、常は知れず、隻氷りたる時は湖中にて其温泉の湧いづる所ばかり氷らずして、氷に所々穴ありて湯気のぼる、又下の諏訪の拝殿の板壁のふし穴より、上の諏訪の塔の影さし渡し一里お隔てヽさし入る、又上の諏訪明神のみたらしのほとりは、四季ともに毎日少し計にても雨降らずといふことなし、又明神の廻廊の板敷釘お用ひず、人歩行するに音なし、其外不思議数数あり、東海道にある天竜川は、其源此諏訪湖より流れ出る、小湖なれども底深く、魚鼈甚多くして、此辺利益ある水なり、