[p.1274][p.1275]
西遊記

与次兵衛瀬(○○○○○) 中国の九州と分れたる地は、長門の国と豊前国なり、赤間が関と内裏とさしむかひて、才に一里の海おへだてたり、小倉へは筋違にて三里なり、此所両国の山迫たれば、海の幅狭く、さし潮、引しほともに、其夕先き甚急にして、誠に大河の如し、其故に此所の渡海は夕の満合たる時にのみわたる事なり、夕先きには渡海なし、予〈◯橘南渓〉が赤馬が関にいたりし時に、渡りの時刻お過て、便船一艘もなく、明日まで逗留すべしといふ、いたづらに時日お移さん事も心なくて、才なる海の面なれば、何とぞして渡るべき手だてやなきと人に問ふに、猟船おかり切りて渡り玉はヾ、今半時が程猶わたるべしといふ、さらばとていそぎ猟船おかり、予僕と二人、船頭二人、都合四人乗て渡りぬ、初の程はさもなかりしが、中流に至れば、誠に大河の如く、逆巻大波脹り落つ、常に手なれし船頭なれど、急流に押落されて、遥に筋違にこそ渡りぬ、其水勢隻川の如くにて、海のやうにあらず、小舟なれば、木のはの如くゆらめきて、座すべくもあらず、僕はとく病臥しぬ、予も急流の目ざましきにいと珍敷おもひて眺め居たりしが、あまりに強くゆられて、心地も常ならねば、面目風景も眺つくさず、辛うじて渡り付ぬ、誠に潮の流るヽ事もすさまじきものなり、又此渡りの中流に、岩山の長きが一つ水の上才に出たり、是お与次兵衛瀬といふ、通船恐るヽ瀬なり、いかなるゆへに名付しやと問ふに、太閤秀吉公朝鮮御征伐の時、肥前の名古やまで御出陣ありしに、此海おわたり玉ふとて、夕先に押ながされ、御座ぶね此瀬に流かヽり、すでに砕けて海中に沈んとせし所お、四方よりたすけ船馳来り助け乗奉り、無難に渡り付給ひしとぞ、其時の船頭お与次兵衛といひしが、大かたならぬ不調法なれば、即時に此瀬に上り、切ふくして失たり、其後此瀬お与次兵衛とは名付しなり、太閤の御座船さえ流れたりし事、其夕先の強きおしるべし、