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新編常陸国誌
六山川
波逆海〈奈左可及宇美〉 本国の鹿島、行方と、下総の河上、香取のさし向へる間なる、両国の界の内海の名なり、〈◯中略〉実にこの抄〈◯万葉集抄〉に雲し如く、近き比までも其名お知るものなかりしが、小宅生順国誌お撰せし時、初めて仙覚の説によりて、定めてこの辺の名とせしより、近来は好事の者多かれば、さらぬ者までも、この辺お波逆と雲事となれり、仙覚の説猶其所お得たればなり、但潮の満る時、波殊に逆流するに依て名とせしと雲へるは、是にあらず、是海は鹿島香取の間三里と雲て、其広大なれば、風のあたりもことに強く、波の逆立て水上の方へ反るさま、常によく見ゆるなり、これ波逆の名お得る所以なり、さばかり広からぬ川にては、両岸近ければ風も強くあたることなし、されば波の立ことも希なり、 補、水戸領地理誌雲、上野の利根川下野の鬼怒川、糸依川蚕養川等の下流、常陸下総の間にて合し、数十里に水たヽへ、渺漫として一大湖おなす、風土記、所謂行方之海生海松及焼塩之藻、凡在海雑魚不可勝載、但鯨鯢未嘗見とあり、今海魚焼塩等なしといへども、土人海と称して湖といはず、〈田間又腐貝多くあり、玉造に貝柄坪あり、(説延方村の条に見えたり)〉其行方、新治の間にある者、之お西浦(○○)とよび、鹿島に臨めるもの、之お北浦(○○)と雲、両派共に行方の地お囲めり、又一派土浦にさし入る者あり、みな鯉、鮒、蝦、鰻の属お産す、西浦、南上戸、牛堀等の地より北小川玉里に至る十余里あり、東西又広狭ありといへども、二三里或は一里に下らず、北浦これに比するに稍狭し、風土記、倭武天皇幸大益河、乗艤時折梶、因称無梶河、此則行方、茨城二郡之堺とある者、今其所在お知らず、茨城行方の堺に河あることなし、思ふに今の新治の地、古の茨城なれば、即此潮の事にて、今の富田の前、遥に信田郡浮島に臨める所、是お霞浦(○○)と称し、玉造より柏崎辺に対せる地、之お無梶河と申せしならん、今すべて西浦、又霞浦と雲、波逆海は、今潮来、延方の前なりと雲、又延方より鹿島に向ふ所、古昔或は高天浦とも申せしならん歟、今これより串引、鉾田に至る所、すべて北浦と呼ぶ、郡郷考雲、風土記の頃だに、已に三四里の洲ありし海なれば、今は大かた村落、又は水田となり、潮来と延方との水田の間、終に沼の如き一所お指て、専ら波逆浦と雲ふ、桑滄の変感歎すべし、