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新編相模国風土記稿
三十九淘綾郡
海 郡南にあり、東方、大住郡堺より、西方、足柄下郡堺迄、縁海長凡三里余、〈◯中略〉凡此海岸、大磯小磯(○○○○)等の名義の如く、巌石多く、浪荒くして、船がかりあしく、潮干なし、汀砂色麗しく鮮明にして愛すべく、風光他に殊なり、されば古くより名苑に入て、余呂伎能波末と見え、又世々の歌に、小余呂伎の磯(○○○○○○)ともある、即此海辺お雲へるなり、今も其所に因て、小余綾の浦、或は小余綾の磯、淘綾の浦など呼べり〈按ずるに、鎌倉腰越村海岸、八王子社地おも、古由留義と呼り、鎌倉志にも、彼地と定め、当国名所、小余呂伎磯も是辺なり、或は大磯の浜おも雲と記すれど、全く当所お得たりとすべしと記せしは、全訛れり、〉然して宗祗が名所方角抄には、大磯小磯の海浜なる由定め雲へり、〈曰大磯小磯とて、中間五六町あり、南は汀なり、北は野なり、富士は乾の方に見えたり、よろぎの浜、こよろぎの磯などヽ雲名所あり、但小与呂伎の磯は、大磯の辺お雲なり雲々、〉中古此海道お経歴せし人々も、多くは大磯宿の海辺おのみ然称せり、