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源平盛衰記
四十二
勝浦合戦附勝磨并親家屋島尋承事 判官〈◯中略〉又浦人召て、此所は何と雲ぞと問、勝浦と申と答、軍に勝たればとて、色代して〓飾お申にこそ、加様の奴原が不思議の事おばし出ぞ、返忠せさすな、義盛は無き歟、しや頭切れと宜へば、伊勢三郎太刀おぬき進出たり、浦人大に恐戦て、其儀は候はず、此浦は御室の御領五箇庄にて、文字には勝浦と書て候なるお、下臈は申安きに付て、かつらと呼侍き、上臈の御前にて侍れば、文字の儘に申上候と雲、〈◯中略〉義経軍の門出にはちまあまこの浦にて軍に勝て、又勝浦に著て敵お亡す、末憑しとぞ悦ける、判官又浦人に問給ふ、此勝浦より屋島へは、行程いくら程ぞと、二日路候と申、さらば敵の聞ぬ先に、打や〳〵とて、鞭障泥お合て打処に、〈◯中略〉判官宜ひけるは、〈◯中略〉偖屋島より此方に敵ありやと問へば、近藤六申けるは、今三十町計罷て、勝宮と雲ふ宮あり、彼に阿部民部大輔成能が子息、伝内左衛門尉成直三千余騎にて陣取たりつるが、此間河野四郎通信お攻んとて、伊予国へ越たりと聞ゆ、余勢などは、少々も候らんと雲ければ、〈◯中略〉打や〳〵とて、勝宮に押寄せて見れば、伝内左衛門尉が兵士に置たりける歩兵等少々在けれ共、散々に蹴散して、逃るはたまたま遁けり、〈◯中略〉新八幡の宝前おば判官下馬して再拝すれば、郎等も又如此、判官は勝浦の勝もかつと読、勝宮の勝もかつとよむ、傍の軍に打勝て、今大菩薩の御前に参、源氏の吉瑞顕然也、〈◯下略〉