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古事記伝

淤能碁呂島は、〈◯註略〉私記に、自凝之島也、猶如言自凝也とあり、彼許袁呂許袁呂にかき成賜へる潮の滴りの、積て成れる故の名なり、〈◯中略〉さて此島の在所は、高津宮段に天皇の淡道島に大坐ましての大御歌に、阿波志摩、淤能碁呂志摩、阿遅摩佐能志麻母美由雲々とあるに因ば、淡島の並と聞えたり、〈◯註略〉私記に、今見在淡路島西南角小島是也、雲俗猶存其名也と雲、口決には、在淡路西北隅小島と雲り、西北西南いづれか実ならむ、〈或説に、後世歌によむ淡路の絵島これなり、日本紀に、以慇馭盧島為胞とあるより出て、もとは胞島の意なりと雲り、又或説に、淡路の西北隅にある胞島これなり、今も胞島と雲、又おのころ島てふ名も存せり、さて其地方に、鶺鴒島と雲もあり、(中略)と雲り、又荒木田狐形雲、おのれさきに西国へまかりしとき、おのころ島のあたりお経行たり、淡路の津名郡、石屋神社の東の小島なりと雲りき、又或説に、淡路と紀伊国の境、由理駅の西方なる小島なりと雲り、こは違へるが如し、〉