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一話一言
四十四
薩州隅州の海中に在之桜島神火の次第 安永八己亥年九月廿九日之夜酉の刻、地震、明る十月朔日卯刻より、御岳南の峯に少し、煙立登るとみへしより、段々と盛んに相成、午の刻に至、山の腰前後六七合目より神火燃上り、黒雲のごとく成煙のぼる事、高さ凡五六里計、光焰の中、霹光曜々、諸人目お驚す事限なし、焼石霰のごとく降ちらし、木石壱丈弐丈の石も、火勢にて微塵となる、四方八方へ飛散、其上国中一時の間に、地震十度程宛の震動、御岳火焰の響き昼夜とも雷鳴のごとし、凡国中手に取様に相聞、勿論近国へも響きわたり、火焰天に満条故哉、近国日州肥後筑後辺の御大名方より、追々御見舞之御使者在之候、折能西風にて、御城下鹿児島は降物無之処、吹戻之風にて壱寸許も灰降つもり候、当日迄も燃止事なく、六七日以前より燃下り海辺まで燃候はヾ相鎮り可申哉、比日は昼夜とも諸事不取敢、銘銘逃支度用意而已に御座候、御岳後辺堺牛根村貝潟中俣垂水辺迄は、焼灰凡六七尺計降積、昼夜とも暗夜のごとくにて、挑灯にて往来致候、猶燃がら石東西南北へ飛散、海中に二三尺焼石積り、其上灰降、依之海上船之渡海難成候、御岳前辺へ燃出候時は、鹿児島へは早速遁退候積にて、家財諸道具銘々土蔵へ詰、用意いたし候も、はや火勢も少うすく相成候得共、大雨いたし候迄は、日和にても傘にて往来いたし候間、鳥類は焼落、獣類焼死、海中湯の如くにて、魚類火敷死し浮上り候、焼失所々多、総村数十八ヶ村、焼死人数委細未難知、凡九千六百人余、牛馬弐千八百余、不残綱切追放し候、寔牧場のごとし、猶当九月廿八日廿九日両日は、島中之御祭にて、諸方より人数火敷入込有之候処、俄の大変騒動、諸人胆おつぶし恐れわななき、我も〳〵と船に飛乗、命から〴〵方々へ遁渡り、危命助しも有之、火急の変事故、船々へのりおくれ狼狽、左右の火焰の中に取巻れ、或は岩石飛落打ひしがれ死するもの数不知、然し博奕谷と申所に岩窟有之、此所へ数多遁込候処、焰石落かヽり、岩窟の入口埋れ死するもあり、其中に命有ものは、焼落たる鳥類など食物にして、五六日之間露命つなぐもあり、御岳後の瀬戸と申所、島より向ひ地へ半里計有之候、その海中深さ八九十尋之所、燃がらの石にて埋もれ、一面に干潟のごとし、寔信州諏訪の海同前に歩渡り、致命助り候者も数多有之、助命の人数、当分鹿児島御物より御養ひ被仰付候、前代未聞大変故、御国中寺社方昼夜御祈禱無限候、古今珍事、則絵図相認差上候、御覧可被成候、以上、 亥十月十三日出 従薩州 続日本紀曰、人皇四十七代、廃帝宝字八年十二月似雷に雷爾あらず、時爾当大隅薩摩の堺、烟雲晦冥而七日之後天晴、於鹿児島の信爾村の海、沙石自集、化而三島と成、炎気鋳形勢の如く相つらなる、望見れば四阿(あづまや)の屋根に似たり、為島の埋る物、民家六十二区、口十余人也と雲、