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秉燭或問珍

地震之説 或問雲、地震とはいか成物にや、山お崩し海お塡、民家お圧倒のみにあらず、人民牛馬の死する事数おしらず、嗚呼天地の間に、かくあさましき事も有物にや、児女の説には、鹿島の明神是お歎給ひ、要石お以て鯰お刺給ふといへり、まことにて侍るや、其説お聞ん、 対曰、地震は二気の〈陰陽なり〉あいだのなす所にして、たま〳〵はげしき事あれば、家お崩し人お傷ふ事あり、是陰陽の気出動にして、全く物有てふるはすにあらず、左伝、文公九年九月地震とあり、正義曰、陽伏して出る事あたはず、陰迫て昇事あたはず、援におひて動くとあり、孔氏曰、陽気陰のためにせばめられて昇事お得ず、故に地震すといへり、又史記にも、地震は陽伏して出ず、陰迫て昇(のぼら)ず、この故に地震ありと記せり、〈周本紀白陽甫説なり〉是等は皆地震の本説也、陰陽家抔の、いつの地震は何にたヽり、幾日の震動は病に祟なんど雲事は、皆迂怪の説にして、用るにたらず、地震何ぞ変とせんや、抑大地は本気渣滓(かす)こり聚て形おなし、元気施転の中に宣れり、天は地の外お包、地は其中間にあり、地中は水火の二気万物お発生する也、水火は所謂一陰一陽也、天地に対していふ時は陰也、故に小陽大陰にせばめられて登事お得ず、地お徽搏して震出る也、是お地震といふなり、此励(はげ)しきは山お崩し海お塡、人家お圧す事あり、又地の震ふ事、他所より分て繁き所あり、是は其地平陸にして広々としたる所程、折々地震し、又震もつよき物也、狭所は山谷岩石にさへられて、陽の出る事緩き故也、広き所は章なきに依て、陽気の厳敷出る故也、中華にても、閩広の地は常に動く、〈広く平なる所也〉析より北は地震希也といへり、〈析より北は皆山つヾきなり〉鹿島の要石といふ事、児女の諺にして雲にたらず、彼輩のいへらく、大成鯰地底にありて、日本国中五畿七道載ずと雲所なし、彼尾或は鰭にても動す所忽地震す、故に鹿島の明神、要石おもつて押給ふといへり、今案ずるに、何ぞ其鯰日本おのみ載て、唐土お載ざるや、唐土にも地震あり、一笑するに堪たり、彼日本お載たる鯰の図お見るに、大き成鯰のごとき物、国々お載たり、愚案お回すに、是恐らくは蜻蛉の図お見あやまりて、鯰に書なしたる物成べし、日本紀に、神武天皇即位三十一年四月、諸国に行幸して、大日本の国形蜻蛤の臀せるがごとしと宣へり、是に依て我国お蜻蛉洲ともいへり、日本の図お見るに、頗鯰の形に似たり、 是等の図お見誤て鯰といふか、又地震の神お鹿島大明神といふ事有べからず、日本紀神代巻に、高皇産霊尊の命おうけて、武甕槌命〈鹿島の明神也〉経津主命〈香取の明神也〉蘆原中津国お平げ、二神出雲の国五十田狭小汀に降居て、十柄剣お抜ひて、倒に地に植て、其鉾端に踞るとあり、是に依て鹿島に石柱お立て、万世の垂跡おしめす也、何ぞ鯰の頭お刺といふ事あらんや、又地震の神といふは、外にありと見へたり、日本紀に推古天皇の御宇に地震して、舎屋悉破れぬ、四方に令して、地震の神お祭らしむとあり、然れども其神跡今は絶て、何地に有事おしらず、