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震雷考説
一夫世界万国はてしなく、天の覆ふ所極りなし、其中に水火は万民お化育し、風雨は万物お潤沢すといへども、甚しきは天災地変と雲、震雷猶是に同じ、〈◯中略〉 気比大明神態襲の箭にあたり給ひ、孔子の伯魚おさきたてし類ひ多かる中に、漢土のいにしへ俊禹の代は、わきて聖代なれども、洪水九年にして、天下の民魚となるとあれば、いかなる聖賢の代にも天災はまぬかれがたし、然に水火風雨の難は遁るヽに道ありとも、震雷は避るに術なし、天にありては雷、地にありては震、是陰陽の凝にして、天地の病なれば、いづれの時発らんもはかりがたし、雷は陰の凝、地中よりいでヽ雲中に入り、散じて陽にかへる、激して音おなし、大陰の雨氷お降らせ、震は陰の凝り地中にくだけて陽にかへり、其気和することなし、重り澀滞りたる所一時に発すなり、陰は閉るおものとし、陽は発することおつかさどる、夏は地上大陽にして地中陰なり、冬は是に反す、故に夏は雷多く地震少し、冬気は雷希にして地震あり、猶陰陽変化の地気なれば、時節のさだまるにはあらねども、陽気発せんとする故、大地震ある年は、季候くるひて殊の外あたヽかなるものなり、又蘭人の説には、火気常に地中お周旋して土お養ふ、火生士気と雲、其地脈の周廻のすぢみちお失ひ、火気の凝たる所一時に発す、是地震なり、発し尽ざる残気、山岳に至り火となるといへり、易曰、鼓之以雷霆、潤之以風雨、日月運行、一寒一暑、是則震ひて寒暖お疾くさそふの証なり、少陽の東に方位し、四時には中春に配当すれば、発陽変化にてあたヽかなるは理なり、