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事語継志録

慶安二年己丑六月廿一日の晩、江戸大地震、御城郭、大名小名の営作、并民屋等に至るまで、悉く及大破なり、依之日光山御宮御宝塔いかヾの旨思召され、次飛脚お以て承り申べき段仰付らるヽ時に、信綱公〈◯松平〉御前〈◯徳川家光〉に於て、御山揺崩申さば格別、さなくば破損あるまじきよし、仰上らるヽ所に、何と存じてさやうに申ぞと上意あれば、信綱公かさ子て言上には、念お入造立仕れば、損ぜざるものと相見へたり、古の大地震にも、御天守并塔などは、敗壊は仕らざるなり、御宝塔の御地形は、かくのごとく念お入て築立させ申すゆへ、破損はあるまじく存じ奉るなり、相輪橖はいかヾあるやの上意あれば、それはたしかに見分仕らざるゆへ、御請申上がたしとありて、其後日光山より御宮御廟塔聊も別条なし、所々の石垣は崩たる旨にて相輪橖は七八寸ほど斜(ゆがみ)申すと申来れば、最初の頓作の御挨拶悉く首尾合たる事と、聞人感じあへり、