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落穂集追加

伝秦屋敷始の事 一問曰、猶其時代の義は、諸事に付御手軽き事共と相聞けれ共、御老中方お初め、何も御立合、御評定所へ茨原町の傾城ふぞいの者お俳徊有之事、何共承知致さぬ事也、虚説などにて無之哉、答曰、手前抔も、寛永年中出生の者なれば、時代も違、慥に可知様も無之候、去ながら左様成る義も可有之と存る子細は、文禄年中、上方に於て、大地震のゆりたる義有之、京都大仏の像などもゆり崩し、権現様の聚楽の御屋形も大破に及び、御家人衆中も、押に打れ死る衆抔も有之由其節伏見小幡山城中に於て、築地の所に立たる奥向の御屋形お震崩し、中居以下の女中五百人計りも相果候に付、老女中、大閤の前に於て、今度の地震に、あまたの下女共、押にうたれ相果候に付、俄に其代りお召抱へよとある義お、秀吉公聞たまひて、御申には、いかに下女ふぜいの者なれ共、あまたの人お召寄る事は、成り兼可申候と玄以法印に申談じ、六条島原町の傾城共お召寄、〈◯下略〉