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源平盛衰記
四十五
内大臣京上被斬附重衡向南都被切并大地震事 同〈◯文治元年〉七月九日、午刻大地震なり、〈◯中略〉同き十四日に、弥益震けり、〈◯中略〉主上〈◯後鳥羽〉鳳輦に召て池の汀に御座あり、法皇〈◯後白河〉は新熊野に有御参籠、御花進給けるが、人屋の倒けるに、人多く被打殺触穢出来にければ、御参籠日数不満けれ共、六条殿へ有還御、天文博士参集て占文不軽と騒申、今夜は南庭に仮屋お立て御座あり、諸宮諸院卿上雲客の亭共も倒れ傾ける上、隙なく震ければ、車に召(○○○)、船に乗(○○○)てぞ御座ける、有公卿僉議、可有祈禱之由、諸寺諸山に仰す、今夜の亥子丑寅時は、大地可打返と占申したりと雲て、家中に居たる者は上下一人もなし、蔀遣戸(○○○)お放ちて大庭に敷(○○○○○○○)、竹の中(○○○)、木本にぞ居ける(○○○○○○○)、天の鳴、地の動度には、すはや隻今こそ地お打返せと雲て、女は夫に取付、少者は親祖父に懐付、貴賤上下高(たからか)に阿弥陀仏お申ければ、所々の声々火し、八十、九十の者共、未懸事は不覚とぞ申ける、余に少者年闌たる老人は、目眩心地損すなど雲て、被振殺者多し、〈◯中略〉文徳天皇斉衡三年三月、朱雀院天慶元年四月に大地震ありと注せり、天慶には主上御殿お避給て、常寧殿の前に五丈の幄お立て渡らせ給けり、四月十五日より八月に至迄、打列震ければ、上下家中に不安堵と伝たれ共、其は見ぬ事なればいかヾはせん、今度の地震は、上古末代類あらじと貴賤騒歎けり、平家の死霊にて、世の可滅由申合り、