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源平盛衰記
十一
大地震事同年〈◯治承三年〉十一月七日戌刻に、又大地震あり、火しとも雲計なし、時移る迄振ければ、唯今地お打返すべしなど申て、貴賤肝心お迷す、明る八日陰陽寮安部泰親院参して奏聞しけるは、其夜の大地震、占文の指所不斜、重く見え侍り、世は唯今失なんず、こはいかヾ仕るべき、以外に火急に侍とて、軈はら〳〵と泣けり、伝奏の人も法皇も、大に驚き思召けれ共、さすが君も臣も差もやはと覚しける、若殿上人などは、穴けしからずの泰親が泣様や、何事の有べきぞとて笑人も多かりけり、法皇の仰には、天変地夭は常の事也、今度の地震、強に騒申事異なる勘文ありやと御気色あり、泰親勅問の御返事には、三貴経の其一、金貴経の説に雲、去夜戌時の地震年 得ては年お不出、月おえては月お不出、日お得ては日お不出、不得は時ばかりと見えたり、其中に此は日おえては日お不出と候へば、遠は七日近は五日三日に御大事に及べし、法皇も遠旅に立せ御座し、臣下も都の外に出給べし、此事もし一言違ふ事候はヾ、御前に於て相伝の書籍お焼失ひ、泰親禁獄流罪、勅定に随べしと、憚処もなく、泣々奏聞しければ、傍御祈始られけり、去共七日の地震、十三日までは、七箇日にあたる、其間異なる事なし、斯りければ、公卿僉議有て、泰親御前にして、荒言お吐き、叡慮お奉申驚条奇怪也、遠は七箇日の御大事たる由、占文其効なき上は、速に土佐の畑へ可被流罪と定られて、既に追立の官人に仰付らるべしとぞ定りける、