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国牛十図
あらたなり、こゝに馬は東関おもちてさきとし、牛は西国お以てもとゝす、はかりしんぬ、陰陽の精霊たるによりて、名おふたつの境にえたりといふことお、事すこしきなりといへども、あへて此ことはりおわきまふるもの、まれらなるものか、但馬は賢哲のおしへかた〴〵あきらかに、牛は蒭蕘のうたがひなおのこるところなり、王侯将相これおもてあそび、黎民匹夫これおたのしむによりて、五畿七道より京洛にあつまる事蟻のごとし、其うち皮肉筋骨に付て、彼の所生の国あらはなること、まゝみ及ぶ所わづかに十け国、見んものさとりやすからむがため、其形体おしるして、十図と名づく、もとより管見のいたりなれば、十に八九はあやまる事おほかるべしといへども、おのづからかなふところあらば、又その要なかるべきにあらず、これたゞ志のゆくにまかす、後見のあざけりかねて思ひまうくるものなり、
筑紫牛(○○○)〈以壱岐島牛称之〉
その形めうしがほにて角さき細く、耳じるしおきる、くびきの下すこしうすく、骨ほそく皮うすく完すくなう、筋あらはに毛みじかく、すべて其姿うつくしく、えだづめ堅く、年おふまで、つまもとさはやかなり、印〈○烙印、以下同、〉まち〳〵なり、
〈上古より上牛駿牛これにおほかりけるに、ひとゝせ異賊此島におそひ来て、かずおつくして、いけにへにもちひけるによりて、なかごろまれになりたりしが、いまはもとのごとくいできにたりとかや、○図略、以下同、〉
御厨牛(○○○)〈以肥前国宇野御厨貢牛称之〉
角ながく、骨ふとく、皮宍あつく、えだふとく、おはかた牛大きなり、中古の名牛おほくこれにあり、印大文字に鞆絵、〈自故今出川入道太政大臣家被下此印雲々〉或雲、大文字にはあらず、散毬打に鞆絵といふと雲々、
淡路牛(○○○)
あたませばく、角さき上へはねて、宍かたく、なか骨すぐに、みじかぶとなり、凡せいちいさくして力たゞし、すぐれたる逸物すくなきものか、
近年西園寺より、御厨の印おさゝせられ、又大きなる牛も出来歟、
但馬牛(○○○)
ほねほそく宍かたく皮うすく、腰背まろし、つの蹄ことにかたく、はなのあなひろし、逸物おほし、
丹波牛(○○○)
大略但馬牛におなじ、ひたいのかみしげり、まなこおほきに出たり、 ひりて皮さきの骨つき出て、よせなはのあたりかれたることにけやし、近年逸物おほし、
大和牛(○○○)
ほねふとく、宍皮あつく頭肩大に、ひくさがり、すべて前うしろおほきなり、腰ひらにあしふとく、蹄大にうすく、角はこまかにひさしくつく、角蹄やはらかによはし、ふるうなるまゝに、足もと見ぐるし、近年逸物おほし、
河内牛(○○○)
角のつきやう、あたまよりことにおひ出たるさまにて、額さし出て、こうろぎがほなり、はなのかはつよくあなひろし、蹄かたくえだに宍なく、せなかうすくはらぼねさしはる、逸物あり、
遠江牛(○○○) 〈相良牧、白羽立牛称相良牛、件庄蓮花王院領、〉
あたませばく、角もとすき、つらそりて、耳のねつよく小ひくさがり、上頸あつく、腹骨まろく、身ながくして、したすぎたり、皮のかゝりえだ蹄、つくし生にまがふ、腰尻さきまですぐにて、貘骨のあたりみにくし、よせなはのあたりかれたり、すべて牛すくなうして駿牛あり、車にてはぬるくせあり、人おほく誤りてつくし牛といふ、印いほりのなかにものあり、又すはまおもさすにや、 故今出川入道太政大臣家より、つくし牛のちちははお、このまきにうつされてより、このすが たなるよし、有某説、
越前牛(○○○)
角もとふとくさきほそく耳すこしおほきなり、はなのかはながくつよし、うへすぐにわたりてしたくつろぎ、骨ふとく宍あつく、しかもかたし、腕すこしおして、蹄うすくしてさきぼそなり、あたらしき時は、みじかくしてうすらかに見ゆるものなり、大なる牛逸物おほし、
越後牛(○○○)
あたませばくて、額のかみなし、つのながくおほきに、耳おほきに肩うすく、腹おほきに骨太く宍うすく、牛大に力あり、逸物まれにあり、十牛のすがた大概はしにしるしおはりぬ、このほか出雲、石見、伊賀、伊勢などよりも、事よろしき物いできたるよし、つたえきゝはべれども、そのさまいまだ見さだめず、抑おなじたちのうち、角のかづき身のつゞきよりはじめて、䮒駿おなじからざるさま、しな〴〵にして、いひつくししるお、このたつおもてに目おとゞめて難おくはふる人あるべし、是柱ににかはするたとへ、おろかなるおしはかりなるべし、たゞしるとしらざると、もちひるもちひざるとなり、時に延慶三年〈庚戌〉五月十日あまり、雨の中のひまにしるしおはりぬ、
河東牧童寧直麿記之