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今昔物語
十二
関寺駈牛化迦葉仏語第廿四
今昔、左衛門の大夫平の朝臣義清と雲ふ人有けり、其の父は中方と雲ふ、越中の守にて有ける時、其の国より黒き牛一頭得たり、中方年来此れに乗て行く程に、清水に相ひ知れる僧の有るに、此の牛お与へつ、其の清水の僧、此の牛お大津に有る周防の掾正則と雲ふ者に与へつ、而る間関寺に住む聖人の関寺お修造する間に、此の聖人雑役の空車お持て牛の無きお見て、正則此の牛お聖人に与へつ、聖人此の牛お得て喜て車に懸て、寺の修造の料の材木お令引む、材木皆引き畢て後に、三井寺の明尊前の大僧都〈○都一本作正〉にて、夢に自ら闘寺に詣づ、一の黒き牛有り、堂の前に繫たり、僧都此れは何ぞの牛ぞと問ふに、牛答て雲く、我れは此れ迦葉仏也、而るに此の関寺の仏法お助けむが為に、牛と成て来れる也と雲ふと見る程に夢覚ぬ、僧都此れお恠むで、明る朝に弟子の僧一人お以て関寺に遣る教て雲く、若し寺の材木引く黒き牛や其の寺に有ると問て来れと、僧関寺に行て即ち返来て雲く、黒き大なる牛の角少し平みたる、聖人の房の傍に立たり、此れは何ぞの牛ぞと問へば、聖人の雲く、此寺の材木引むが為に儲たる牛也と、僧返て其の由お僧都に申す、僧都此お聞て驚き貴みて、三井寺より多の止事無き僧共お引将ぬ、歩行にて関寺に詣て、先づ牛お尋るに牛不見えず、牛何にぞと問へば、聖人飼はむが為に山の方へ遣しつ、速に取りに可遣しと雲て童お遣りつ、牛童に違て堂の後の方に下り来れり、僧都取て将来れと宣ふ程に、牛不被取ず、僧都心敬ひ貴て雲く、速に不可取ず、隻離れて行き給はむお可礼き也とて、恭敬礼拝する事無限し、他の僧共も皆礼拝す、其の時に牛堂お右に三匝廻て庭に仏の御前に向て臥しぬ、僧都より始めて此れお見て仏お三匝廻る、此れ希有の事也と雲て弥よ貴ぶ、其の中に聖人達たる僧共は皆泣きぬ、如此くして僧都返ぬ、其の後此の事世に広く聞えて、京中の人首お挙て不詣ずと雲ふ事無し、入道大相国より始め奉て、公卿殿上人皆不詣ぬ人無し、而るに小野の宮の実資の右大臣のみぞ不参給ざりける、閑院太政大臣公季と申す人参給て、下人其の遣らむ方無く多かりければ、車より下て入らむが、頗軽々に思え給ひければ、車に作乗ら牛屋の程近く車お引き寄せたるに、此の牛寺の内に車に作乗ら入給へるお、罪得がましくや思えけむ、俄に索お引切て山様に逃げ去ぬ、太政大臣此れお見給て下居て雲く、作乗お入つるお無礼也と思て、此の牛の逃ぬる也と、悔い悲びて泣き給ふ事無限し、其の時にかく懺悔し給ふお哀れとや思ひけむ、牛漸く山より下来て牛屋の内に臥ぬ、其の時に太政大臣草お取て牛に含め給ふに、牛殊に草も不食て臥たる心地に此の草お含めば、太政大臣襴の袖お面に塞て泣き給ふ事無限し、見る人も皆貴がりて泣きぬ、女房は鷹司殿関白殿の北の方皆参り給へり、如此四五日の間首お挙て諸の上中下の人参り集る程に、聖人の夢に此の牛告て雲く、我れ此の寺の事勤畢ぬ、今は明後日のた方帰なむとすと雲ふと見て、夢覚て泣き悲て、三井寺の僧都の許に詣て此の由お告ぐ、僧都の雲く、此の寺にも而る夢見て語人有りつ、哀なる事かなとて泣々く貴ぶ、其の時に此の事お諸の人聞き継て、弥よ詣る事道隙無し、其の日に成て山三井寺の人参り集り、阿弥施経お読む事山お響かす、昔の沙羅林の儀式被思出て悲き事無限し、漸くた晩方に至る間に、牛露泥む気色無し、此の参り合へる中にも邪見なる者共、牛不死で止なむずるなめりと雲ひ嘲る、而る間漸く晩方に成る程に、臥たる牛立走て堂に詣て三匝廻るに、二度に成るに忽に苦ぶ気色有て、臥ては起く、如此く両三度して三匝お廻じ畢て後に、牛屋に返り至て枕お北にして臥しぬ、四の足お指し延べて寝入るが如くして死ぬ其の時に参り集れる、若干の上中下の道俗男女、音お挙て泣き合へり、阿弥陀経お読み念仏お唱る事無限し、人皆返ぬれば、牛おば牛屋の上の方に少し登て土葬にしつ、其の上に卒都婆お起て釘抜お差せり、夏の事なれば土葬也と雲へども、少も香可有きに、露其臭き香無し、其後七日毎に仏経お供養す、七々日、若は明る年の其の日に至るまで、諸の人皆取々に仏事お行ふ、〈○下略〉