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駿牛絵詞
重問雲、牛おさかりにもてなさるゝ事は、いつごろよりの事にて侍りけるやらんといふ、答雲、〈○中略〉これも上〓の仰られ侍しは、漢家には農耕のもとゝして、牛お車などにもちひることはいと侍らぬにや、本朝には仙洞の儀式は、白河鳥羽の御時よりこそはじまらせ給けれども、かの両御代は猶こと幽玄にて、牛馬の御沙汰などまでは分明ならず、臣下の御中にはさる人々もおはしましけるやらん、江中納言殿匡房御才覚、人より殊におはしましけるが、牛の事もはらさたし給ひけるとなん、さては後白河院御代こそ、よろづのみち〳〵はなやかなる御事にておはしましけるが、その御代には、池大納言〈頼盛、平太政入道殿御おとゝ、〉牛道よく知給たりければ、勅定によりて一巻の文おつくりて奏聞せられける、御牛童十王丸おなじくこの道おきはめ存知したりければ、十王九が説とのせられたり、又堤大納言殿〈朝方、冷泉中納言殿御息、〉牛馬の道すぐれたる人にておはしましける、出雲国お知行し給けるに、牛相すべき様など、当国へしるし下されたりけるおば、堤大納言殿牛文(○○○○○○○)とて、今の世までも残りとゞまりたるとぞうけ給はり及ぶ、ふるき名牛の類の中に、新大納言伊良礼子、〈出雲牛雲〉これはもし彼亜相の御牛にやおぼつかなし、其後は後鳥(八十二)羽院御代、諸道お御興行ありしかば、牛馬の御沙汰もごとにはえある御事にて侍ける、王胤には冷泉宮〈頼仁親王、小島宮と申、〉ことに御このみありて、一巻の文おえらび給、これ小島宮牛文(○○○○○)とて世にとゞまり侍、執柄家には普賢寺禅定殿下〈○藤原基通〉なにごとにもくらからぬ御事にておはしましけるが、それこそ又うるはしく牛の髄脳おはしらせ給ひて、あるべき式まで御記にとゞまりたるとうけ給はりおよび侍しが、画図の御筆までもたぐひなき御事と聞えさせおはしましゝに、後京極摂政殿〈○良経〉又御才覚もめでたく、御手跡人よりことなる御事にておはしましけるが、御筆の自在に御意にまかせられけるあまりにや、御絵おぞあそばされ侍ける、さてぞ後京極殿御馬、普賢寺殿御牛とて、一双の御事には申つたへて侍、卿相には、按察使中納言殿〈光親、葉室中納言光雅息、〉雲客には牛玉中将殿〈御実名なにと申させ給ひしやらん、ゆゝしき遣手也、〉僧には二位法印御房〈尊長、一条二位殿能保息、〉この道おこのみて、人々にあらそひ申されける紫野のかへり遊に申ける事に、法印御房がしきりに按察殿の車おぬかむとせられけれども、ひまもあらせずやりければ、前途お達せられず、師子丸と申名牛は、すなはち彼法印の牛なり、それもかへり遊の日、彼牛おかけられけるに、一条大宮にて、石にはせかけて車おうちかへして落車す、時にとりて世のさたにて侍き、かゝるほどに順徳承久に時うつり事変ぜし後は、天下いたくはれ〳〵しきこともはべらざりけり、おほかたかの御代には、牛馬の事にも、いとめづらかに興ある御事どもおほく承及びしかども、あまりに久しくなりて、みなわすれ侍、同御代吉田辺に、播磨僧都〈実名何と申しやらむ〉と申人こそ、うしにとりてゆゝしきすき人にて侍しか、坊中に数十間の牛屋おつくりて、洛中の病牛もしは小牛のゆくすえお、かひたつる事おこのみ沙汰しければ、世こぞりて飼口おつけおきてあづけ侍しかば、さま〴〵いたはりたてゝ本主にかへしつかはしけり、播磨僧都の牛文(○○○○○○○)と申て、世につたはりて侍なり、又後堀河院御代の程にや、伝法院法師御房〈道厳〉五明の道くらからずして、人畜の医療も鏡おかけておはしましゝが、牛の事その随一にて、当道の先達にはこれおぞあふぎ申侍し、さても後嵯峨院は末代の明王、何事もむかしにはぢずめでたきはなやかなる御事にておはしましゝに、御随身御牛飼までもすぐれたるともがら林おなして侍き、御馬御牛も名おとゞめたるおほくきこえ侍き、完元四年御脱屣のはじめ、西園寺太政入道殿〈○公経〉もとより牛馬の御沙汰世にすぐれておはしましければ、御随身御牛飼も、彼御かたよりめし進ぜられ侍き、孫太郎、鷹法師、賽王丸等也、これらかたへにこえたるともがらにて侍き、又室町院〈○暐子〉女宮にてわたらせおはしましゝかども、牛の善悪おもしらせおはしまして、御このみ他事なかりしかば、彼院中の月卿雲客おはじめて、上下われも〳〵とさたありしかば、牛逸物も、牛飼の遣牛も世におほく、この道の中興とも申べく侍き、