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東雅
十八/畜獣
馬〈むま〉 保食神殺されし後に、馬牛と化れる事、旧事紀に見えたり、其後大己貴神の倭国に上り給ひし時、御馬の鞍に手おかけられしなど、古事記に見えしは、此時既に馬に駕する事ありけるなり、又旧事紀に、素戔烏神、天斑駒お逆剥にし給ひしと見えしかば、駒お呼びてこまといふことも、其代に聞えしなり、古事記には天斑馬としるしたれば、かよはしては馬とも駒とも雲ひしなるべし、むまといふ義詳ならず、こまは即小馬也、〈爾雅註にも、駒は小馬也と見ゆ、〉
万葉集抄に、昔百済国より馬お此国へ奉りたりけるに、いくばくもなかりければ、めづらしき 獣にして、うまおば其時にはいばふみヽのものとそ雲ひける、それお秦氏の先祖よく乗れりけり、さて帝これおいみじき者にせさせ給ひて、うまと雲はんといふ事定り、始ていこま山といふ山に放ちて、飼はしめ給ひけりといふ事見えたり、もし此説の如くならんには、我国の馬といふ者は、人代に及びて百済より奉りしに始りたるなり、疑しき事なれど、然るべき人のしるせしところなれば、必うけ伝へし所ありぬべし、或は我国の初よりありつるものは、たとへば今の土佐駒などいふ者の如くに、其形も小しきなりしに、今の如くなる物の出来し事は、百済より其国の馬お奉りしに始れりしにや、さらばうまとは大馬の謂にして、こまは小馬の謂にやあるならむ、太古の時には、獣おば毛麁物(けのあらもの)、毛柔物(けのにごもの)など雲ひしと、旧事古事等の書にも見えたり、馬の如きおも、むまといふ事はなくて、外に呼びにし名もありしお、後の代にむまといふ事になりて、もとより此国にあるものおば、こまなど雲ひしほどに、馬とも駒とも相通はしていふ俗、ありしも知るべからず、国史には、応神天皇の御代に、百済王遣阿直岐、貢良馬二匹、即養於軽坂上厩、因以阿直岐、令掌飼、故号其養馬之処、日厩坂也、と見えけり、いみじきものにせさせ給ひて、うまといはんといふ事、定まれりといふ事に依らば、古語に凡そ誉めて雲ひぬる事には、うまと雲ふ事ありけり、可美葦牙彦舅(うましあしかびひこぢ)神、可美少男(うましおとこ)、可美少女(うましおとめ)などいふが如き是也、馬の如きも其良材おほめ給ひて、うまとは名づけられしなるべし、或はまた百済王貢上したるは、世のつねの物にもあらず、胡地に出でし所の者なりしかば、うまと名づけられしもまた知るべからず、胡馬の字、漢音おもて呼びぬれば、うまといふべし、
むかし西洋の人の、其国の馬お画がきしものども見るに、そのたけは高けれど、其形にも似ず、うで爪のふとくして、心得ぬ事に思ひしほどに、喎蘭陀人に其事お問ひしに、あはれ此国の馬ほどめでたきものはあらず、本国の人ゆきかふ所、西洋の地方、凡百二十余国のうちに、巴爾斯亜(はるしあ)の国の産のみ、此国の物には似たる所もあるなり、其の余は悉く皆画がきし者の如しと雲 ひけり、其後慶長中に、暹国(しやむ)の王、毎年使して我国の馬賜らむ事お、請ひし書数通お得しに及び て、燭蘭陀人の言、誣ひざりし事は知りたりき、凡は世のつねに見もし聞きもしつる事は、その 常に習ひて、さのみには覚えず、又近きおいとひて、遠きお貴ぶ事も人の心なり、こゝろすべき 事也と思へば、こゝに附し註しぬ、