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兵法一家言

馬は元来野生の獣にて、草お食ひ水お飲み、風両お承て生長するは天性なり、然るに今時武家にて乗馬お飼ふお見るに、甚上品に過て宜しからざること多し、故に馬も亦習性と成り、奢慢り、懦弱に為り、艱難に堪ること能はず、此等の天理お説示すと雖も、馬役等は己が姚賃の減少ことなるお以て、種々虚托たる便計の論お発して、予〈○佐藤信淵〉が教お毀こと甚し、〓々たるものは天下皆是にて奈んともすべからざる俗習なり、其教ふべからざるものは暫く偖置き、真実の武備お修んことお欲する者は、天性の自然お心得て、草お以て飼ひ立つべし、試に見よ、田舎の小荷駄馬は、其形容痩枯して見苦しけれども、人お駕せて疾く遠行するに至ては、其力の極めて強き者なることお、又今世の厚養の乗馬なる者は、御庭や馬場お平行するには、蹄正鞍穏かにして甚立振に見ゆれども、此に乗りて篠竹莿棘等の、滋蔓たる薮中お通行せんことお欲し、或は泥深く草繁りたる沼沢等に乗掛りて渡さんことお欲し、如何に叱て鞭つと雖も、進むことお得る者に非ず、然るに野飼の薮に馴れ深田お耕たる馬なれば、平然として通行す、此お以て察すべし、今時の如く飼ひたる乗馬は、戦場に出て必死の勝敗お争ふときに臨ては、何の役にも立ざることお、〈○中略〉中古の時代には、奥羽両州には、六貫一匹の軍役ありき、六貫とは、予が農政本論に説きたる如く、唐渡銭六貫文の小役銭と、籾六十石の租税の出づる領地にて、今の世なれば金六両と糙米三十石に当るべし、此六貫文の知行高より、馬乗一騎づヽ出す軍役なり、然るに今時の如く、上品なる飼料にては容易に馬お飼ふこと能はず、千石以上の大身と雖も、馬お持たざる家のある所以なり、故に我家の法は、野草或粃や稗藁糠の類お用ひて、馬お養ひ、大豆等お飼ふこと無し、然れども其馬の重きお乗せて遠お致し、其力の強きこと、世上の大豆お食て奢侈に馴れたる馬の及ばざること有り、故に我家法は、乗馬と雖ども、艱難に馴れしめんが為に、小荷駄に用ひ、駄賃お取て以て馬お多く飼ふに従ひ、内証愈富饒に成て、馬も亦丈夫なること甚しく、如何なる艱処おも、自在に奔走することて得る者なり、故に大身も小身も馬お飼ふには、質朴なる馬役お抱へて、日々駄賃お取しむるお常例とすべし、此の如くするときは、毎日の小使銭おば、乗馬の駄賃にて賄ふことヽ心得居るときは、馬お多く飼ふと雖ども、枉費あること無し、馬は子立より踏お掛ること無く、素足にて使ふべし、松前は寒国にて、悉石地なれども、藁の無き処なるが故に、馬踏お掛ること無し、然れども未曾て足裏の痛たる馬の有ることお聞ず、総て活物は全く馴習に因者にて、平生踏お用ざれば、足の裏自然に硬く成るものなり、是翅に馬のみならんや、人も亦然り、常に履なく走行する人は、足の裏の皮厚く硬固お見て、其理お会得すべし、若又踏お掛ざれば、足の痛む馬ならば、宜く薬お用ふべし、我家に金履伝と名けて、足の下の皮お硬くする妙薬数方あり、其中の一方お斯に記す、五倍子十匁、鉄粉十五匁、山薬十匁、密陀僧八匁、以上四品お細末にし、鉄醤お道宜に加へ、膏薬の如く微火上にて煉り、木綿布お馬の跡の大さに切り、厚く攤て爪裏に占し、明日乗るには、今日より占て、踏お掛置くべし、如斯すること七八度も占ときは、足の裏皆堅固に硬まる者なり、馬は平生三匹も五匹も同居同食せしめ、且其傍に牝馬おも置きて、能く見馴れさすべし、如斯せざれば、馬の多集るときに、或は咬合蹶合て騒動し、或は牡馬お希見るときは、淫狂お発すること有り、馬は総て乗馬にも小荷駄にも用ふべきなれども、軍馬には牡馬の強健なるお用ること別して利益多しと知べし、又田舎の古諺に、馬は飼殺せ、使殺せと雲ふは、信に至言なり、故に一日にても休め置くこと宜しからず、但余り骨折たる翌日には、軽き荷お負せて歩ますべし、又其食物おば沢山に飼ふお良とす、野草お第一として、竹の葉、菽売、雑木の若葉、藁等も宜し、時に麦稗黍等お殻とも煮て喰しむべし、豆は多く与ふるは宜しからず、米糖亦然り、又海河の藻も甚好む者なり、馬は自身に此お世話し、食物お飼ふも、洗足するも、皆自ら懇にし遣すべし、或は乗り或は牽も、厚く愛育して、使御お常とす、斯の如くせざるときは、己が自由に成らざる者なり、今時の武士の馬お取扱ふお観るに、一向に其心得の無きお以て、馬お扱ふこと馬夫にも劣れるもの多し、仮令ば乗ることは上手にても、扱ふことの下手なるは恥べきの事に非ず乎、皆是平生武道に心お用ること無く、唯馬夫にのみ任せ置くが故なり、又洗足おするも、平生は水洗足に仕付置て、爪の根と爪の裏とお念お入れて洗ふべし、但四五日に一度づヽ、上湯お以て大肩より総身お能く洗ひ遣すべし、又流れ川に四足お浸すことは甚能く、馬足の邪気お除くの療法にて、馬お壮健にすること、湯洗足に勝れり、若夫れ足に血の溜滞こと有りと雖ども休めて置ときは愈血溜滞て、是不自由に成る者なり、故に血の来ること有らば、針お用ひ、速かに洩血して、愈油断なく乗るべし、然れども保養の為に乗廻すことなるお以て、其心得にて道宜に乗るべきこと論ずるに及ばす、