[p.0134][p.0135][p.0136][p.0137]
源平盛衰記
三十四
東国兵馬汰並佐々木賜生唼附象王太子事
鎌倉殿の侍所にて評定あり、合戦の習、敵に向城お落すは、案の内なり、大河お前にあて、兵お落さん事、ゆヽしき大事也、都に近き近江国には勢多の橋、其流の末に、山城国には宇治橋二の難所あり、定て橋は引ぬらん、河は底深くして流荒し、なべての馬の渡すべき用に非ず、其上河中に乱杭逆茂木打、水の底に大綱張、流かけぬらし、よき馬其お渡て、宇治勢多お渡して、高名あるべしとぞ被議ける、斯りければ、大名小名党も高家も、面々に其用意あり、上総国住人介八郎広経は、礒(○)と雲馬お引せて参たり、下総国住人千葉介経胤は、薄桜(○○)と雲馬お引く、武蔵国住人平山武者所季重は、目糟馬(○○○)とて引く、同国澀谷庄司重国は、子師丸(○○○)とて引たり、畠山庄司次郎重忠は秩父鹿毛(○○○○)、大黒(○○)、人妻(○○)、高山葦毛(○○○○)とて引たり、相摸国住人三浦和田小太郎義盛は、鴨の上毛(○○○○)、白浪(○○)とて引たり、伊豆国住人北条四郎時政は、荒礒(○○)とて引たり、熊谷次郎直実は、権太栗毛(○○○○)とて引たり、大将軍九郎御曹子は、薄墨(○○)、青海波(○○○)とて被引たり、同蒲御曹子は、一霞(○○)、月輪(○○)とて被引たり、是等は皆曲進退の逸物、六鈴沛艾の駿馬、強事は獅子象の如く、早き事は吹風の如し、されば越後越中の境なる姫早川と、利根川と、駿河国には富士川と、天中大井川なんど雲大河お渡せし馬共也、まして宇治勢多お思ふに、物の数にやとぞ各勇申ける、此中に佐々木、梶原馬に事おぞ闕きたりける、折節秘蔵の御馬三匹也、生唼(○○)、磨墨(○○)、若白毛(○○○)とぞ申ける、陸奥国三戸立の馬、秀衡が子に元能冠者が進たる也、太逞が、尾髪あくまで足たは、此馬鼻強して、人お釣ければ、異名えは町君(○○)と被付たり、生唼とは黒栗毛の馬、高さ八寸、太く逞が、尾の前ちと白かりけり、当時五歳猶いでくべき馬也、是も陸奥国七戸立の馬、鹿笛お金焼にあてたれば少も紛べくもなし、馬おも人おも食ければ生唼と名たり、〈○中略〉梶原源太は磨墨に増る馬もや有るらんと思ひて、大名の中お廻りて馬共お見るに、九郎御曹子の青海波七寸、蒲御曹子の月輪七寸二分、和田小太郎の白波七寸五分、畠山の秩父鹿毛七寸八分、此等お始として、大名小名五十匹、三十匹、五匹、十匹、引せたり、され共磨墨に倍る馬なし、源太大きに悦び、一重あがりたる所に居て、引廻し引廻し愛し居たり、余の嬉さに、人が嘆よかし、引出物せんと思ふ処に、村山党の大将に、金子十郎家忠、折節援お通りけり、招寄せて、如何に金子殿、此馬何程の馬にて候ぞ御覧ぜよと雲、金子は元より勇み狂したる男なり、打見て誑れ笑ひ、これは佐殿〈○源頼朝〉の磨墨にや、御辺の親父梶原殿、御内には一人にて御座す、されば御辺此御馬賜り給ひにけり、此程の馬おば能きとも悪きとも、中々詞お加ふる事沙汰の外に侍り、隻時の枱徐(こへよそ)の人目こそ羨敷候へと嘆たりければ、源太大に びて、小桜お黄に返したる鎧に、太刀一振取副て引く、源太は舎人三人付て摩よ、はたけよ、飼労れとて、他事なく是お愛しけり、佐々木四郎高綱は、生唼に黄覆輪の鞍置、白き轡、二引両の手綱結びて、舎人六人付て、浮島原お西へ向てぞ引かせたる、原中宿お過、平々たる春の野なれば、生唼不斜勇み、身振ひして、三声四声嘶たり、鐘おつくが如くなりければ、遥に二里お隔てたる田子の浦へぞ響きたる、畠山是お聞て、こはいかに生唼が鳴音のするは、誰人の給て将来たるやらんと雲ふ、半沢六郎申けるは、是程の大勢の中に、数千匹、逸物共多く侍り、何の馬にてか侍らん、大様の御事と覚へ候、其上生唼は蒲殿梶原などの被申けれ共、御免しなしと承はる、さては誰人か給ふべきといへば、人々げにもと思ひて、あざ咲ふてぞ有ける、畠山重忠は一度も聞損すまじ、人にたびたばずは不知、一定生唼が音なり、隻今思合せよと雲もはてねば、生唼は東の方より舎人六人ひきもためず、白泡かませら出来たり、さてこそ畠山おば神に通じたるやらんとも申ければ、源太は磨墨ほめ愛して居たる処お、舎人共生暖引てぞ通ける、ゆヽしく見えつる、磨墨も勝る生唼に逢ひたれば、無下にうてヽぞ見えたりける、源太是お見、蒲御曹子の賜はる歟、九郎御曹子の給歟、よき次とて院へ進せらるヽかと思て、郎等お以て、其御馬は何方へ参り、如何なる人の馬ぞと問ふ、舎人、是は佐々木殿の御馬と申す、佐々木殿とは誰ぞ、三郎殿か、四郎殿かと問、四郎殿の御馬と答、源太此事おきヽ、口惜事にこそ、景季再三所望申つるに、御免なき馬お、高綱にたびける事の遺恨さよ、佐々木にたぶ程ならば、先の所望に付て景季に給ふべし、景季に給はぬ程ならば、後の所望なり、高綱に給ふべからず、大将軍たる人の、源平の大事お前に拘へて、悪くも偏頗し給へり、是程の御気色にては、いかでも有なん、千世お栄べき世中に非ず、思へば電光朝露の如くなり、いつ死なんも同事、日比佐々木に宿意なし、時に取て日の敵なり、高綱さる剛の者なれば、無左右よもせられじ、互に引組て落重り、腰の刀にて指違、恥ある侍二人失ひ、鎌倉殿に大損とらせ奉らん、高綱景季二人は、一人当千の兵おやと思て相待処に、佐々木争か角とは知べきなれば、十七騎にてさしくつろげて歩せ来たる、源太は最後と思ひつヽ磨墨に乗、太刀も持ず、刀ばかりぞ指たりける、遥に佐々木に目お懸て、真横に歩せ塞ぐ、高綱是お見て、郎等共に申けるは、援に引へたるは梶原源太と覚へたり、あの景気お見るに、馬の立様人お待様、直事とは覚へず、生唼ゆへに、一定高綱に組まんと思ふ意趣あるらん、鎌倉殿〈○源頼朝〉の意せよとは此事にこそ、組て落るものならば、指違てぞ死なそずらん、但梶原佐々木、公の馬お論じて命おすてん事、人目実事面目なし、陳じてみんに不協して、梶原我に組むならば、心あれとさヽやきて、打通らんとする処に、源太打並びて雲けるは、如何に佐々木殿、遥に不奉見参、あの御馬は上より給てかと雲懸て押並ぶ、高綱にこと打咲て申様、実に久不奉見参、去年十月の比より近江に侍りつるが、近きに付て京へ打べかりつれ共、暇申さでは其恐有り、又何方へ向へとの仰お蒙らんと存じて、三日に鎌倉へ馳下らんと打程に、隻一匹持たりつる馬は疲損じぬ、さては乗替なし、如何すべきと思煩ひ、御厩の馬一匹申預らばやと存じて、内内伺きけば、磨墨は御辺の賜はらせ給けり、生唼は御辺も蒲殿も再三御所望有けれ共、御許しなしと承る、さて高綱などが給はらん事難協、中々申さんも尾籠なりと存じて、心労せし程に、由井浜の勢汰にもはづれぬ、さて又馬なしとて留まるべき事にも非ず、如何せんと案ずる程に、抑是は君の御大事なり、後の御勘当は左右もあれ、盗て乗んと思て、御厩小平に心お入、盗出して夜にまぎれ、酒勾の宿まで遣して、此暁引せたり、隻今にや御使走て、不思議なりと雲御気色にや預らんと閑心なし、若御勘当もあらん時は、可然様に見参に入給へとぞ陳じたる、源太誠と心得て、げに〳〵佐々木殿、輒くも盗出し給へり、此定ならば景季も盗むべかりけり、正直にては能馬はまふくまじかりけりと狂言しお、打連てこそ上りけれ、