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源平盛衰記
四十二
源平侍共軍附継信盛政孝養事
日も西山に傾きける上、判官には多くの郎等の中に、四天王とて殊に身近く憑み給へる者は四人あり、鎌田兵衛政清が子に鎌田藤太盛政、同藤次光政と、佐藤三郎兵衛継信、弟に四郎兵衛忠信なり、藤太盛政は一谷にて討たれぬ、一人闕たる事おこそ日比歎きしに、今日二人お失ひて、今は軍も詮なしとて、継信光政が死骸お舁きて、当国の武例(むれ)高松と雲ふ柴山に帰り給ひて、其辺お相尋ねて僧お請じ、薄墨(○○)と雲ふ馬に、金覆輪の鞍置て申しけるは、心静ならば、懇にこそ申すべけれ共、斯る折節なれば力なし、此馬鞍お以て、御房庵室にて卒都婆経書き、佐藤三郎兵衛尉継信、鎌田藤次光政と廻向して、後世お弔ひ給へとて、舎人に引かせて僧の庵室に被送けり、此馬と雲は、貞任がおき黒の末(○○○○○)とて黒き馬の少ちいさかりけるが、早走の逸物なり、多の馬の中に、秀衡殊に秘蔵なりけれ共、軍には能馬こそ武士の宝なれば、山おも河おもこれに乗りて敵お攻め給へとて、判官奥州お立ける時進せたる馬なり、宇治川おも渡し、一谷おも落せし事此馬なり、一度も不覚なかりければ、吉例と申しけるお、判官五位尉に成けるに、此馬に乗りたりければ、私には大夫とも呼びけり、片時も身お放たじと思ひ給ひけれども、責ても継信、光政が悲さに、中有(う)の路にも乗れかしとて被引たり、兵共是お見て、此君の為に命お失はん事、惜からずとぞ勇みける、