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常山紀談

山内土佐守一豊、其はじめ織田家に仕へたりけり、東国第一の駿馬なりとて、安土に牽来てあきなふ者あり、織田家の士、是お見るに、誠に無双の駿足なれど、価あまりに貴しとて、求むべき人なく、いたづらに牽きて帰らんとす、一豊其比は猪右衛門といひしが、此馬望に堪かねたれども、いかにも協ふべからざれば、家に帰り、身貧きほど口惜き事はなし、一豊、奉公の初に、あつはれかゝる馬に乗りて、屋形の前に打出べき物おと、ひとり言しければ、妻つく〴〵と聞て、其価はいかばかりにてか候と問ふ、黄金十両とこそいひつれと答ふ、妻聞きて、さほどに思ひ給はんには、其馬求め給へ、其の料おばまいらすべしとて、鏡の奩の底よりとり出して、一豊が前にさし置きたり、一豊大におどろき、此年ごろ身貧しくて、苦しき事のみ多かりしに、此金ありともしらせ給はず、心強くも包み給ひけん、今此馬得べしとは思ひもよらざりきと、且は悦び、且は恨む、妻仰の旨ことはりにてこそ候へ、さりながら、これはわらは此御家に参りし時、父此のかゞみの下に入れ給ひて、あなかしこ、世の常の事にゆめ〳〵用ふべからず、女が夫の一大事とあらん時にまいらせよと戒めたまひ候ひき、されば家の貧しきも、世の常なれば堪忍ても過ぬべし、誠に今度京にて馬揃あるべしと承れば、此事天下の見物なり、君も又つかへの始なり、よい馬召て見参せさせまうさんと存じ候ふてこそ奉れといふ、一豊悦ぶ事限りなく、頓て其馬求めてけり、程なく京にて馬揃ありし時、打乗て出しかば、信長大におどろき、あつはれ馬やとて、事の由聞き給ひ、東国第一の馬遥にわが方にひきて来りしお、空しく帰さんは口おしき事ぞとよ、それに年比山内は久しく浪人して有りしと聞、家も貧しからんに、求得たるは、信長が家の恥おすゝぎたるうへ、弓箭とる身のたしなみ、是に過たる事やあると感じて、是より次第に用ひられしとぞ、r ○按ずるに、覧馬の事は、兵事部練兵篇馬揃条にあり、参看すべし、