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明良洪範
二十三
相馬弾正少弼昌胤は、其先将門に出たり、千葉之介常胤が二男総州相馬に住せしより在名也、奥州中村の城主なり、千葉家の氏神妙見は七星の其一お祀り、千葉七家にて妙見お以お宗廟とす、千葉嫡子相続して、神醴は飯高に在と雲、奥州相馬領分にして、六月妙見祭りに神事の野馬追と雲事あり、〓家中甲胃弓箭お帯し、兵具お揃へ、行伍お建て、勢子お以て野馬お追出し、馬どめ有て夫へ追込め、其中三匹お取て洗ひ、轡お掛躶脊にて馬場お三篇欠させ、其後追放す迄なり、其あら馬お捕内に、怪我も多く種々の事有といへども、妙見の御手洗の池水に入て、一時過れば疵忽ち愈ると也、毎年の神事なれば、上下其方お自然と熟し、貝太鼓に協ひ、将の下知に従ふ、左右の手お使が如し、然るに一年大江本立軒と雲毛利大江家の奥儀お究めたる軍学の者あり、実は武田家高坂弾正菩提所富士の裾野なる寺に、高坂が覚書数通収め置しお盗み出し、富士書と号し、夫より一流お立、諸流お附会し、軍法者土屋民部少輔利直の師たるに付、本立軒利直お頼み、相馬家の野馬追の備立、武者押の次第こそ、当時治世にて珍らしく、軍陣の試みに勝る事又有べからず、何卒一度采配お取て、人数お指揮し申度旨お望みしかば、総家士お三組に分けて、其一組お本立軒に預けられしが、前日より内ならし有けり、元より書面計りの備立なる故にや、当日野馬追の人数組ー番に崩れ合期せずして神事違乱に及びしかば、家臣相馬将〓采配取て前々の通り仕るべしと、一言の下知に依て、ひし〳〵と立直し、神事例の如く執行有けり、本立軒面目なく、今一度と願ひけれども、一旦は親敷土屋家よりの頼み故に許容しけれども、最早神事も相済ければ無用なり迚事済けり、