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今昔物語
二十八
中納言紀長谷雄家顕狗語第廿九
今昔、中納言紀の長谷雄と雲ふ博士有けり、才賢く悟広くして、世に並び無く止事無き者にては有けれども、陰陽の方おなむ何にも不知ざりけり、而る間狗の常に出来て築垣お越つヽ尿おしければ、此れお怪と思て、のと雲ふ陰陽師に、此の事の吉凶お問たりければ、某の月の某の日、家の内に鬼現ずる事有らむとす、但し人お犯し崇お可成き者には非ずと占たりければ、其の日物忌お可為きなりと雲て止ぬ、而る間其の物忌の日に成て、其の事忘れて物忌おも不為ざりけり、然て学生共お集めて作文して居たりけるに、文容する盛に傍に物共取置たりける塗籠の有ける内の方に、極て怖し気なる者の音にて吠ければ、居並たる学生共此の音お聞て、此れは何の音ぞりと雲つヽ恐ぢ迷ける程に、其の塗籠の戸お少し引開たりけるより、動出る者有るお見れば、長二尺許り有る者の、身は白くて頭は黒し、角の一つ生て黒し、足四つ有て白し、此れお見て皆人恐迷ふ事無限し、而るに其の中に一人の人、思量有り心強かりける者にて、立走るまヽに此の鬼の頭の方おはたと蹴たりければ、頭の方の黒き物お蹴抜きつ、其の時に見れば、白き狗の行と哭て立てり、早う狗の楾お頭に指入たりけるお、楾お蹴抜たるまヽに見れば、狗の夜る塗籠に入にけるが、楾に頭お指入てけるお否不引出て鳴く音の怪しき也けり、其れが走り出たるお、物恐お不為ず量り有ける者の、狗の然か有ける也けりと見て、蹴顕したる也けり、此く見て後になむ人共肝落居心直りける、其の後は集て咲けり、然れば実の鬼に非ねども、現に人の目に鬼と見ゆれば鬼とは占ける也、其れに人お犯し祟お可成き者には非ずと占ひたる、実に微妙き事也と雲てぞ、人々皆占お讃め喤りける、但し中納言の然許才有る博士にては、物忌の日お忘る、最と雲ふ甲斐無う弊き事也とぞ聞く人謗ける、其の比は此の事おなむ、世に雲ひ繆ひ咲けるとなむ語り伝へたるとや、